落ちこぼれだった偉人


落ちこぼれだった偉人

落ちこぼれ偉人偉業落ちこぼれエピソード等
アルベルト・アインシュタインドイツ生まれの理論物理学者。相対性理論や光量子仮説など革命的な理論を次々に発表し、20世紀の偉大な科学者にかぞえられる喋り始めるのが遅かったために、9歳になっても小学校の高学年になってもアルベルトの会話は流暢ではなかった。さんざん考えたあげくでないと質問への答えが出来なかった為、両親は知恵遅れでしはないかと心配したほど。高校の成績は数学以外はまるでダメで、教師が「何一つ基準に達する事が出来ないだろう」と言って退学を勧告した事もあった。こんなエピソードがある。アインシュタインが電車賃を払った時の事、おつりが間違えていると駅員に抗議したアインシュタイン。駅員が確認してみると、おつりは合っていた。アインシュタインはすぐにあやまったのだが、駅員に「これだから計算の苦手な人は困るなぁ」と言われていたみたいで。チューリヒ工科大学への入学も、入試に落ちた為に一年遅れた。大学を出た後も、職探しが、その間に、彼は相対性理論の着想の公式化に取り掛かっていた
G・K・チェスタートンイギリスの作家・詩人・批評家。主な作品は「新ナポレオン奇譚」「木曜日の男」それに、温厚なブラウン神父が活躍する一連の探偵小説等肥満児で人気のなかった子供時代のチェスタートンは、学校は大の苦手で8歳になるまで字が読めなかった。教師の一人が言った事がある。「お前の頭を開けたら、脳味噌は全然無くて脂肪の塊りだけ入っているのだろう」と。彼はずっとクラスの最下位を続けてきたが、15歳の時に未来の作家E・C・ベントリーとの間に友情が芽生えた事で、その内向性が解消されてた。彼の変貌は目覚しく、中等学校卒業の頃には、多作で評判の良い作家への第一歩を踏み出し、のちにブラウン神父で脚光をあびる事になる
ウィンストン・チャーチルイギリス首相。在任1940〜45、51〜55年。第2次世界大戦時の首相として大きな指導力を発揮し、連合国を勝利にみちびいた元来優秀な一族の中でも最も傑出した存在となったチャーチルは、少年期にはあまりの鈍さに、生計を立てていくのさえ難しいだろうと父親を嘆かせた。異常に活動的な子供だったチャーチルは、歴史や文学は好んだが、ラテン語やギシリャ語、数学は一切寄せ付けず、ハロー校へ最下位の成績で入学した。四年半の間には多少成績も上がったが、その後、サンドハースト陸軍士学校の入学試験に二度も落ちて、ハロー校から家に引き戻され「詰め込み用家庭教師」をつけられた。彼は三度目の挑戦で合格し、それ以降は修得不可能な障害にはほとんど出合わなかった
チャールズ・ダーウィンイギリスの博物学者。すべての生物は自然選択の作用によって時間をかけて進化するとの立場から、現代進化論の基礎をきずいた。ダーウィンの学説は、生命科学、地球科学、さらに現代思想にきわめて大きな影響をもたらした若い頃のダーウィンは、古典教育で名高い名門校に入学したが、成績が振るわないので、父親がある時、叱ったことがあった。「射撃と犬とネズミ捕りにばかりうつつを抜かしていると、自分も家族全体も辱めることになるぞ」と。エジンバラ大学の医学部を惨敗してのち、ダーウィンは目的も定まらずケンブリッジ大学でぶらついていたが、博物学への情熱から、1831年、英軍艦ビーグル号に乗り込んだ。彼はこの航海を史上最大の科学探検の一つにした。この時の発見が進化論にまで発展したのである
トマス・A・エジソンアメリカの発明家。電球、発電システム、録音装置、映写機などを発明または改良して、現代社会の形成に大きな影響をおよぼした小さい頃のエジソンの奇妙な質問癖を優しく見守ったのは、寛容な母親だけだった。教師が「2+2=4」と教えた事を、エジソンは「なぜだ」と言って中々、納得しなかった。教師は「頭の中はゴチャゴチャ」と評し、父親は「脳たりん」と決めつけかねなかったし、校長は「何をやっても成功しないだろう」と警告した。にも関わらず、母親の指導のもとで、エジソンは早くから色々な書物を読み、まもなく実用的な発明を生み出すようになった。最終的には、1000種を越える発明の特許を取り、人類が受けた恩恵は計り知れない
パウル・エールリヒドイツの細菌学者。免疫化学の基礎となる多くの理論を発表し、梅毒をはじめ数多くの化学療法を開発した。1908年、ノーベル生理学・医学賞を受賞エーヒルの学校の成績は惨憺たるもので、試験が大嫌いだった。しかし、顕微鏡下の組織の染色作業に関しては天才的で、作文や口頭発表での無能ぶりにも関わらず、教育課程をまっとう出来たのは、この才能のお陰であった。結局、彼は顕微鏡を扱う才能を生かして、化学治療の分野を開発し、1908年にはノーベル医学賞を受賞した
ヘンリー・フォードアメリカの実業家。1903年にフォード・モーター社を設立した。規格化した設計で大量生産し、自動車を大衆化することに成功し、慈善事業家としても知られ、フォード財団を設立したフォードは読み書きに関してはギリギリの線で学校を切り抜けた。かろうじて、ウィリアム・H・マガフィー編の教科書『リーダース』の文学的な警告を、いくつか記憶出来た程度だった。しかし、機械の内部の構造を見抜く能力は、子供の頃から卓越していた。父親の農場の農機具を修理し、水車や蒸気機関車を組み立てて級友達を喜ばせた
ハインリヒ・ハイネドイツの詩人。その抒情詩は哀調をおび、ときに機知にとんだ風刺もこめられていて、ひろく愛唱された。主な作品は「ローレライ」「ドイツ、冬物語」「ロマンシェーロ」等母親が「一心に学び謙虚さを心がけなさい。そうすれば、誰もお前を馬鹿に出来ないでしょう」と忠告したにもかかわらず、ハイネ少年はフランシスコ修道会男子校での成績は、特に語学に関しては、目を被いたくなるものだった。ドイツ語の文法はほとんど理解できず、フランス語やラテン語・ギリシア語の頭の痛くなるような語形変化にもお手上げだった
ガマル・アブデル・ナセルエジプト初代大統領。在任1956〜70年エジプト初代大統領の学業成績は惨めなものだった。6歳から16歳までの間に4学年しか進級できなかった。やっとの事で高校は卒業したものの、彼が政治革命への傾斜を強めていった為、その間、教師との間には衝突が絶えなかった。最初の試験も受けずに法律学校を中退した後、幸運にも王立陸軍士官学校に入学し、陸軍少尉として卒業した。1952年には軍事蜂起を指揮してファルーク王を追放し、共和制を打ち立てた
アイザック・ニュートンイギリスの数学者で物理学者、天文学者、歴史上でも、とくに偉大な科学者のひとりにかぞえられる。ニュートンは、有名な力学の「運動の3法則」をはじめ、微積分法や光学など、さまざまな学術分野で数々の偉業をなしとげている。その発見や理論の重要性は、自然科学の基礎として今日にいたっても色あせていない今日ではおそらく史上最高の頭脳と位置づけられているニュートンの青年時代には、その片鱗も現わさなかった。怠け者で機械道楽のニュートンが学業を続けるのを許されたのは、ひとえに、一家の農園経営を任された時、全くの無能ぶりを示したからである。彼はその時、学校の最低クラスに格下げされたが、あるガキ大将との戦いを通じて向上したのきっかけに、精神的無気力状態からやっと脱出した。数学と物理学における彼の後年の業績は、科学的思考法の大変革をもたらした
パブロ・ピカソ膨大な数の作品をのこしたスペインの画家、彫刻家パブロ・ピカソは、20世紀芸術に大きな影響をあたえた。1904年にパリにうつりすみ、後期印象派の影響をうけた作品を制作するが、のちにはキュビスムをはじめとするさまざまなスタイルを発展させた。20世紀のもっとも偉大な芸術家とみなされる。主な作品は「科学と慈愛」「ゲルニカ」「3人の楽士」等ピカソは絵を描く事以外は何もしようとしなかった為、学業の進歩は遅々たるものだった。10歳で父親が学校を辞めさせた時、彼は読み書きも満足に出来なかった。ピカソに中等学校入学の準備をさせるため雇われた家庭教師は、頑として数学を学ぼうとしない絶望的な教え子にさじを投げた。美術学校の入試は抜群の成績で合格したが、すぐに退屈してやめた。その後は、マドリッドやパリで独学で絵画を学び、数年間の苦闘の末、美術界にセンセーシュンを巻き起こした
ジャコモ・プッチーニイタリアの作曲家。色彩的なオーケストレーションと歌謡性豊かなメロディによって、はげしい感情と甘美な抒情性とを融合させたオペラを作曲した。主な作品は「ラ・ボエーム」「トスカ」(1900)、「蝶々夫人」(1904)等「トスカ」や「ラ・ボエーム」「マダム・バタフライ」の作曲家は、教会楽士の一家に生まれ、家業を継ぐよう期待されていた。しかし、彼にはまったく野心がなかった。学業の成績は悪く、はじめて彼を教えた音楽教師は、才能なしと見放した。が、幸運な事に、二人目の教師の教え方が彼の興味を起こし、この時から、プッチーニは全身全霊で音楽に身を捧げるようになった
エミール・ゾラ自然主義の創始者として知られる19世紀後半のフランスの作家。主観を排し、自然科学の実証的実験法を文学に導入することを提唱した。その自然主義文学の出発点となった記念的な作品が、「ルーゴン・マッカール叢書(そうしょ)」(全20巻。1871〜93)である。ゾラは、遺伝と社会環境が人間の人格や行動におよぼす影響をしめすために、1人の女性から派生したルーゴン家とマッカール家の5世代にわたる人々それぞれの物語を書きついだゾラはソルボンヌ大学の科学と数学の筆記試験は通ったが、語学と文学の口述試験に失敗した。シャルルマーニュ(カール)大帝の没後を忘れ、ドイツ語の読解テストはまったく箸にも棒ににもかからず、単純な寓話さえ解釈を間違えた。二ヵ月後にマルセイユ大学への入学を企てた結果は、いっそう悲惨だった。筆記試験の段階であまりにヒドイ成績だったため、口述試験は受験資格さえ与えられなかった。彼は友人のポール・セザンヌに宛てた手紙で嘆いている。「オレは何と無知なんだろう」と。のちには『ナナ』をはじめ広く評判となる小説を著わし、文学における自然主義運動の創始者となった
ジェームズ・ワットスコットランドの技術者。蒸気機関を改良し、その性能を高めた。また、ピストンの往復運動を回転運動にかえる遊星式の歯車装置、回転速度を自動調節する遠心調節器などを発明した慢性の偏頭痛に一生悩まされたワットは、感受性の強い子供で、級友達のイジメの対象になり、勉強面では「頭の鈍い愚図」と決め付けられた。しかし、13歳の時に幾何に興味を持った事で、急激な知的発達の口火が切られた。彼の蒸気機関車の改良は、産業革命を開始させた
坂本龍馬坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の仲立ちをして薩長同盟を結ばせたり、独自の国家構想「船中八策」をまとめ、この構想が下敷きとなり、大政奉還という偉業を成し遂げる子供の頃、泣いてばかりいたので「鼻たれの泣き虫などと言われ、友達にからかわれていた。10歳過ぎても寝小便をしており「よばいたれ」とも言われ、ろくに学問もできず誰が見ても暗愚な子供だった。12才の時、家から3丁程離れた小高坂の「楠山庄助塾」ヘ強制的に入塾させられたが、塾通いの初日は泣きながら中途帰宅したと言う。塾は漢書の素読などを行なっていたが、龍馬はこの塾の環境になじまず、あくぴをしたり鼻をほじったり・・・半年後には退塾している。龍馬より3歳年上の姉の乙女に鍛えられ、龍馬は、めきめき成長し、自己改革をとげてゆく
バーナード・ショーアイルランド生まれの作家。シェークスピア以来最大のイギリスの劇作家とされる。50本の舞台劇を書いた多作な劇作家であるだけでなく、アイルランド生まれの風刺作家スウィフト以来もっとも辛辣なパンフレット作家であり、当代一おもしろい音楽評論家で、最高の劇評家であった。また、文学界きっての書簡文の名手でもあった多数の聴衆を前にして演説をやり、世界一の皮肉屋と言われたバーナード・ショー、実は元々、内気で臆病者で劣勢コンプレックスに悩んだ人物。若い頃、テムズ河沿いに住んでいる友人を訪ねていったものだが、恥ずかしくて恥ずかしくて、思い切って友達の家のドアをノックするまで、20分あまりも河畔を行ったり来たりしていた



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