色々な日本第一号は?


色々な日本第一号は?

項目 年・内容
LPレコード 昭和26年、ベートーベン、ストラヴィンスキー、ブラームス、ムソルグスキー、プロコフィエルの5枚がコロンビア社から発売。値段は1枚2300円、かなり高価だった
アイスクリーム 明治2年、 渡米経験ある町田房造が馬車道・常盤町5丁目に「氷水店」を開き、「アイスクリン」を発売。値段が高く最初は外国人しか売れなかった
アナウンサー 大正14年、東京中央放送局の桐本アナウンサーの「ああ、聞こえますか」
アルサロ 昭和25年、大阪・難波の歌舞伎座ビル内開店。店名は「夢の国」。当時は触ってはいけなかった
アンパン 明治7年、銀座木村屋が売り出し大評判となる
映画 明治29年、神戸の神港倶楽部というホールで上映されたのが、映画日本初。この時に使われたのはエジソンが発明したのぞきめがね式の箱型機械「キネマ・スコープ」
映画女優 大正7年、「生の輝き」に出演した花柳はるみ
映画俳優 明治31年、日本初公開の劇映画「稲妻強盗」に刑事役で出演した横山運平が第一号
駅伝 大正6年、京都から東京に首都が移って50年が経ったのを記念し、読売新聞社の提案により「東海道五十三次駅伝競走」が行われる。京都から東京まで500km超を23人が昼も夜もリレーし、3日間かけてゴールした
駅弁 明治18年、今の東北本線・宇都宮駅。ゴマ塩をふりかけた梅干し入りの握り飯2個にタクワンをつけ、竹の皮で包んだけ。値段は5銭
エスカレーター 大正3年、東京・日本橋の三越百貨店で日本で初めて設置。ただし、アメリカ製。国産初は、昭和3年、大阪・新京阪電鉄天六ビル
エレベーター 明治25年、帝国ホテルが最初の電動式エレベーターを取り付けた。が、それ以前に、半手動式もあり、浅草の凌雲閣の階上に取り付けられていた。
鉛筆 明治14年、技術伝習生としてウィーンに学んだ藤山種広が伝えたものを手細工で井口直樹が製作したのが始まり
男の助産婦 大正11年9月18日、内務省から正式に許可されたのは、静岡県の福田周藏。70歳、全盲であったとか
カーレース場 明治11年5月9日、多摩川河川敷に日本初のレース場「多摩川スピードウェイ」が誕生。3万人収容できるスタンドも作られた
貸し自転車屋 明治10年、横浜元町で石川孫右衛門が自転車16台を輸入し、貸し自転車屋を開業
ガス灯 明治5年9月29日、日本社中(高島嘉右衛門らが設立した会社)によって、大江橋から馬車道、本町通りにかけて点火
気象観測 明治5年、福士成豊は英国人ブラキストンから気象観測を学んび、自宅に気候測量所を設置し、観測をはじめた
義足 明治元年6月、宣教師ヘボンにより歌舞伎女形の三世沢村田之助に洋式義足が付けられた
喫茶店 明治21年4月6日、東京・台東区「可否茶館」が開店。オーナーは長崎で通訳をしていた中国人。時期が早過ぎて3年ほどで閉店に追い込まれ。ちなみにコーヒーは1銭5厘、ミルク入りは2銭
キャディ 明治36年にオープンした神戸の六甲クラブにいた50人。キャディの格好も、脚絆にワラジ、手ぬぐいの鉢巻きだった
牛乳販売 文久3年、横浜に牧場を作って売り出した、前田留吉という人物が第一号
金庫 江戸時代末期、横浜の火事で外国商館が被害にあい、金庫を修理したのが、竹内弥兵衛という鍛治屋だった。これをキッカケに、明治2年にオリジナルの国産金庫第一号を完成させた。当時は「金庫」ではなく、「金張箱」「ドル箱」と呼ばれていた
クリーニング 1859年(安政6年)、青木屋忠七が外人居留地に住む外国人のために西洋洗濯を始める
警官 明治4年、当時は邏卒(らそつ)と言い、三千人もいて、携帯武器は、長棒一本。飲酒は正月を含めて、年5回という厳しい条件付。
蛍光灯 昭和15年、奈良の法隆寺壁画を模写する際の照明が日本で最初に使用された蛍光灯だった
劇映画 明治41年9月、牧野省三、日本初の劇映画として「本能寺合戦」を製作・監督した
号外 慶応4年、中外新聞が出した「上野彰義隊事件」の報道がはじめて
公衆トイレ 明治4年、町の辻々83ヵ所に板で囲った簡単なものを設けたのが始まり。最初は公同便所と呼ばれていたが、やがて共同便所、公衆トイレと呼ばれるようになった
高速道路 昭和38年7月16日、名神高速・滋賀県の栗東IC〜兵庫県の尼崎IC間71.1Kmが、高速道路の第一号。時速100Kmで走れる道路に車の性能が追いつかず、開通後10日間でオーバーヒートなど573件もの故障が発生したよう
交通信号機 大正8年(1919年)、東京・上野広小路にて第一号の信号機ん゛出現。この時は手動式で「進め」「止まれ」という文字が現れる簡単なもの。自動信号機が日本に輸入され、取り付けられたのは昭和5年3月23日、場所は日比谷交差点
コック 明治5年、アメリカ公使タウンゼント・ハリスの専任通訳、ヒュースケンに雇われていた小林平八が最初。東京で西洋亭という料理屋を開店し、みずからコックとなった
ゴム印製造 明治15年、藤木節斎は横浜のケヤコーフからゴム印の製造法を学び数ヶ月の試作の末にゴム印の製造に成功
三冠馬 昭和16年、セントライトは中央競馬において皐月(さつき)賞、日本ダービー、菊花賞を制した日本最初の3冠馬。父ダイオライト、母フリッパンシー、母の父フラムボヤント。黒鹿毛、岩手県小岩井農場産。主戦騎手は小西喜蔵。
始球式 明治41年、アメリカ大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の第一試合目に始球式が行われた。初めての儀式のマウンドには大隈重信。当時、70歳で、野球ことをよく知らなかったらしく、マウンドから下手投げでコロコロとボールを転がしたよう。ボールは一塁側に転がってゆき、どうみても「ストライク」にはならないので、バッターは、わざと打席で大振りした。これが、始球式でわざと空振りする決まりになったよう
自動改札 昭和2年、鉄道切符の自動改札は上野〜浅草地下鉄が初
写真館 1861年(文久元年)、米使ハリスの通訳ヒュースケンから写真術を学んでいた下岡蓮杖は、横浜弁天通に写真館を開業し、後に、東京浅草において多数の門下を養成し、日本における写真師の鼻祖となった
週刊誌 明治41年、太平洋通信社から創刊された「サンデー」とされている。この雑誌は固い話題から、当時としてはかなり柔らかな話題まで、幅広く網羅していたそうで、今日、日本で見られる多くの週刊誌の元祖というおもむきだったらしい。
女医 明治18年、医師の国家試験制度ができて以降、最初の女医になる。自分が淋病になった時の体験から女医の必要性を痛感し、女医への道を選んだようだ
女子専用アパート 昭和5年、東京・大塚の文理科大学前に建った「大塚女子アパートメント」。入居資格は、独身女子。男性の訪問はかまわないが、一階の応接室で面会だけ。二階以上は男子禁制だったようです
女性記者 明治32年、羽仁もと子は報知新聞社に入社し、日本初の女性記者となった
人工衛星 昭和60年1月8日、M-3SII-1ロケットより発射され、日本で初の地球重力圏から脱出して太陽を周回する人工惑星となった
新婚旅行 慶応2年(1866年)、坂本龍馬と妻のおりょうは、鹿児島に訪れている。霧島の山深く入り温泉で寺田屋事件で負傷した傷を治しながら、天の逆鉾を見ようと妻おりょうと高千穂登山をしている。坂本龍馬が鹿児島に訪れた行程は88日間とされ、現在の新婚旅行とも言われている
水族館 明治30年、神戸の和田岬で開かれた水産博覧会の中心施設として建設されました。木造インド風洋館造りで、水槽29個に約100種5000点を飼育して当時の話題をさらった
水道 明治20年、津久井郡・相模川を水源に横浜野毛貯水池の約48kmが近代水道の始まりで、横浜の家々に給水が始まった
スキー 明治44年、オーストリアの軍人テオドール・フォン・レルヒは、新潟県高田で、陸軍兵士や民間人に日本最初のスキー指導をおこなった。それで、アルペン・スキーをはじめて日本につたえ、日本スキーの父といわれる
ストーブ "1856年(安政3年)、蝦夷地の厳しい冬に耐えられず、函館で水腫病と言われる奇病に悩まされていた藩兵を救うために、箱館奉行の命により作成された。幕末のレオナルド・ダ・ビンチとも称された武田斐三郎がその制作指導にあたった "
ストライキ 明治19年6月12日、雨宮製糸場(山梨県甲府)の女性労働者100余名だった。彼女たちは、労働時間の30分延長と日当の大幅引き下げに抗議して、いっせいに工場を退場して町内の寺にかけこんだ。あわてた会社側はリーダーとの協議にのりだして譲歩の姿勢をみせたため、ストライキは労働者の勝利で終結した
西洋洗濯 明治13年、函館支庁はイギリス領事ユースデンを通して、西洋洗濯機、アイロン、セッケンなどを購入し、西洋洗濯の伝習所を開設。 ユースデン夫人が教師となり、女学校の教員などに西洋洗濯法を広めていった
赤十字精神 明治元年、榎本武揚たちと五稜郭に入った旧幕府脱走軍医師高松凌雲は、その箱館戦争のなかで欧州留学で身につけた赤十字精神を発揮し、敵味方の区別なく負傷者の治療にあたった
戦後宝くじ 昭和20年10月29日、一等10万円。ハズレ券、4枚でタバコ10本が貰えた
宣伝カー 明治42年、東京・京橋の明治屋が、英国製のトラックをビールの配達と宣伝に使ったのが日本初
即席ラーメン 昭和33年、簡単に出来るラーメンとしてチキンラーメンが発売。日清食品の創業者・安藤百福が、自宅の裏庭に建てた粗末な小屋で開発されたもの。1袋35円
ダム式発電所 大正13年、岐阜県恵那市を東西に横断する木曽川の渓谷を塞き止め、我が国最初のダム式発電所大井ダムが、電力王福沢桃介によって建設され、上流12kmにわたる人造湖ができた。この人造湖をふくむ木曽川の河岸一帯が、恵那峡とよばれている
地下鉄 昭和2年12月30日、上野〜浅草間(2.2km、現在の営団地下鉄銀座線の一部)に開業。火災予防のための全鋼製の車両、自動開閉扉や自動列車停止装置(ATS)の採用など、当時としては最新の技術を導入していた。当初は物珍しさもあって大混雑の状態だったものの、バスや市電などの他の交通機関にくらべると料金が高かったこともあってか、利用者数は伸び悩んだ
蓄音機 明治42年、日本蓄音機製造会社が国産蓄音機の生産開始
地方博物館 明治12年、開拓使は物産品と動植物の収集および展示を目的に、函館仮博物場を開設。開拓の進歩を広く知らしめ、民衆の知識高揚をはかるために開館した博物館には、 初日から多数の見物人が集まり大盛況であった
チューインガム 大正7年、日本に初めて輸入され、翌年、銀座にリグレー会社が進出して本格的販売を開始
鉄道 明治5年9月12日、明治天皇をむかえた鉄道開通式が行なわれる。新橋を午前10時に出発し、横浜・野毛に11時に到着。華やかな式典だった。新橋〜横浜の片道料金は当初、上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘だった
鉄道の忘れ物 明治5年、日本で初めて蒸気機関車が品川から横浜間を走ったが、この時に、ホームに下駄を脱いで横浜に乗っていた。これが第一号の忘れ物。「土足ではダメ」と思って、下駄を脱いで乗ったようです
テニスコート 明治11年、山手公園内に5面のコートが作られ、レディス・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブによって行われたのが、わが国での最初の試合
テレビCM 昭和28年、日本初の民放、日本テレビが開局し、最初に流れたのは精工舎(服部セイコー)の時報のCM
テレビ結婚式 昭和33年3月3日、栃木県の24歳同士のカップルが初めてテレビカメラの前で挙式。場所はラジオ東京、テレビBスタジオ。放送後、すぐに伊東温泉にハネムーン旅行
電卓 昭和39年にシャープの「シャープコンベットCS-10A」を販売。これには一万個以上の部品が使われ、高さ25cm、重さは35kg
電話 明治23年12月16日に電話交換開始。その公開実験の時の呼び掛けは「もしもし」ではなく「おいおい」だった
動物園 明治15年3月20日、農商務省の博物館附属動物園、のちの上野動物園が日本最初の動物園。開園当初は面積1万平方メートル弱、日本産動物と家畜を主に約300点の動物を飼育する小さなものだった
日刊新聞 明治3年、日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊。神奈川県知事の井関盛良が横浜の貿易商らに出資を呼び掛けて実現。新聞は1部あたり2銭5厘と、高かったが、珍しさもあって発行部数は伸びていった
ノーベル賞 昭和24年10月、陽子と中性子との間を往復する新粒子の存在を予言した「中間子論」の功績で日本人初のノーベル物理学賞を受賞。寝入りばなのふとしたヒラメキのアイデアが、ノーベル賞を受けられた研究の基本になったという
パ ン 1860年(万延元)年 内海兵吉がフランス軍のコックから焼き方を教わり「富田屋」を開店。最初のパンは、パンだか焼き饅頭か、わけのわからぬものだった
バーゲン 大正12年8月5日、日本最初のデパートの三越デパートが物価引下げをうたって実施したバーゲンセール。牛肉大和煮缶詰が70銭のところを40銭、75銭のコンビーフは45銭、二割から三割引の大売出しだった
パチンコ店 昭和11年、名古屋に住む正村竹一が「ハイスピード野球ボール」という店をオープン
パトロール 1860年(万延元年)、神奈川奉行所は横浜外人居留地(現、横浜市中区山下町)警備のため5人1組でドンドコ、ドンドコと太鼓を打ちながら警備パトロールをした。これを「ドンドコ回り」とか「旭字回り」と呼んだ
万歳 明治22年2月11日の日本大帝国憲法発布に始まる。経済学者・和田垣謙三が「万歳三唱」を提案
ピアノ 明治33年、日本楽器製造株式会社(現 ヤマハ株式会社)の山葉寅楠が、若手の松山大三郎、山葉直吉、河合小市(後の河合楽器の創設者)らとともに製作したアップライト型のピアノ
ビアホール 明治32年7月、東京新橋に開店した日本麦酒会社のエビスビアホール
ビール 明治3年、横浜にアメリカ人ウィリアム・コープランドが設立したジャパン・ブルワリー醸造所で国産第一号のビールを製造
飛行 明治43年12月14日、東京代々木練兵場(現、原宿・代々木公園)で、苦心の末に日本ではじめて飛行機の離陸に成功。初飛行に挑戦したのは日野熊蔵と徳川好敏の2人の大尉。成功したのは日野大尉の操縦するドイツ製のグラーデ式単葉機だったが、しかし高度わずか10m、距離60mの飛行に終った
ボーナス 昭和9年、三菱商会。上級社員が5円、下級社員が1円。最下級の役人の月給が12円という時代だから、そんなに高くない
ホテル 1860年(万延元年) 、オランダ船籍の帆船ナッソウ号の元船長、フフナーゲルが「横浜ホテル」を開業。しかし慶応2年(1866)の大火で焼失
マッチ 明治7年頃、菊林林蔵が戸部監獄の囚人300人を使ってマッチ製造を始めた
マラソン 明治42年、大阪毎日新聞社主催で行われた「マラソン大競争」がマラソンの日本初。コースは神戸の湊川埋立地から大阪の新淀川西成大橋までの32Kmで、参加者は素足やわらじや地下足袋で競った
緑のおばさん 昭和34年11月20日に、804名が初登場。正式名所は学童擁護員
民放ラジオ局 昭和25年9月1日午前6時30分、日本初の民間放送として中部日本放送(CBC)と新日本放送(NJB、後に毎日放送)がラジオ放送を開始
メーデー 大正9年5月2日、日曜日、上野公園両大師前広場でおこなわれた。演壇にたった友愛会の鈴木文治が「今年は日曜を選んだが、来年は何曜でもかまわぬ、仕事をやすんでこの会をひらこう」といったように、翌年からは5月1日に開催されるようになった
野球 明治4年10月、横浜公園予定地のクリケット・グランドで居留外国人チーム対貨客船コロラド号(太平洋郵船)水夫チームの試合が日本で行われた最初の野球の試合
洋裁学校 大正15年4月、杉野芳子の「ドレスメーカー・スクール」。最初は花嫁修業の為に上京してきた若い女性3人の生徒だった
洋式灯台 明治2年、明治政府はフランス人技師ベルニーの設計によりレンガ造りの日本最初の洋式灯台を観音崎に建設
洋書輸入 明治2年、現・丸善の創始者・早矢仕有的が新浜町(現、横浜市中区尾上町)に「球屋」と言う輸入洋書屋を開業。当時困ったのは、店員が洋書の書名を読めなかったことだという
ラムネ 明治17年、神戸の輸入貿易商「シム商会」が製造したのが日本第一号のラムネ。水道が発達していなかった当時、冷たい飲み物はハイカラ好きの神戸っ子たちに大人気だったよう
リフト 昭和22年、志賀高原丸池スキー場と札幌の藻岩スキー場にて、スキー場にリフトが架けられた。しかし、進駐軍として来日した米軍が建設したもので、日本人は立ち入り禁止だった
理容師 明治2年、小倉虎吉が横浜居留地の中国人アコン宅の階下に開業したのが最初。「断髪するのは、死ぬより嫌だ」という人も多く、最初に断髪したのは役人や学者、学生など限られた人々だった。
冷房車 昭和11年、南海電車がはじめて鉄道の冷房化
レンタカー 明治43年、5人乗り40馬力の車を1日30円、半日15円で貸し出す会社が出現
労働組合 明治30年、高野房太郎らが結成した労働組合期成会が母体となってできた鉄工組合
路面電車 明治22年、琵琶湖疎水を利用した電力によって、日本で最初の路面電車が京都〜伏見京橋間で運行開始
外国郵便 明治8年1月1日、横浜郵便局(日本大通5番地)で外国郵便業務開始
街路樹 1867年(慶応3年)、馬車道で柳と松を商店が競って植えたのが街路樹の始め
競馬 1867 年(慶応3年)、日本最初の洋式競馬が根岸競馬場で行われた
自転車 明治12年、梶野甚之助が蓬莱町で製造。全て木製で、あまり余り普及しなかった
写真フィルム 昭和4年10月1日、小西本店(現コニカ)から本格的な国産初の写真フィルムとして「さくらフィルム」が発売された
消防救急 昭和8年、横浜市と名古屋市に救急車が備えられた
西洋歯科 明治14年、横浜市中区山下町に米国人ウイリアム・イーストレーキが歯科診療所を開設
石鹸 明治6年7月、堤磯右衛門がフランス人化学技師ボエルから製法を教わり洗濯石鹸の製造に成功
電信 明治2年12月26日、横浜電信局と東京電信局との間でわが国で初めて電報の取扱いが行われた
洋楽器 明治17年、三味線の職人だった横浜の西川虎吉が日ノ出町に工場を設けて風琴(オルガン)の製造に成功
洋風木造ホテル 明治39年、旧三笠ホテルは日本人職人の手で建てられ開業した。社長は日本郵船などの役員を務める山本直良だったが、経営者が変わり戦後は進駐軍の休養所となり、最後は「三笠ハウス」として昭和45年に64年間のホテルの幕を閉じた



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