江戸末期の「ええじゃないか」の仕掛け人は?


江戸末期の「ええじゃないか」の仕掛け人は?

「ええじゃないか」、1867年(慶応3)7月から翌68年(明治元)4月ごろにかけて、伊勢神宮など各地神社の御札の降下をきっかけに、祭りのかたちで爆発した騒乱状態。
当時はおかげ踊り・豊年踊り・御札降りなど、さまざまに呼ばれた。
前年には世直し一揆が江戸時代最大の件数になったが、1867年はひさびさの豊作と第2次長州征伐の停戦で、米価は下落傾向にあった。
生活の安定と余裕、幕藩体制の崩壊と世直しへの期待が、富裕な家々の前に御札が降ったことを知った民衆に、神意を感じさせたのだろう。
降札は社会を混乱させるための討幕派などによる人為的なものと考えられるが、これのあった家は吉兆としてよろこび、近い将来か必ず良い事があると信じて祝った。
来客者には酒や食べ物をふるまい、家業や仕事は休み奉公人も休ませた。
お祭り気分の人々は華やかに着かざったり、男が女装、女が男装するなど、抑圧された日常生活から解放されたハレ意識の中で、「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」「チョトサ(長と薩)」などとはやしながら踊った。
これまでに確認された最初のええじゃないかは、1867年7月中旬(8月という説もある)の東海道吉田宿(愛知県豊橋市)付近の農村地帯で、皇大神宮の御札が空から降ってきたことだった。
人々は「これは何かの吉兆に違いない」と感じ、「ええじゃないか、ええじゃないか」と連呼しながら踊り始めた。
その後も、御札は降り続き、人々の熱狂状態は加速していった。
誰も真面目に働かず、ただ「ええじゃないか」と一日中踊り続ける。
そして、この奇妙な熱狂状態は、たちまち名古屋、静岡方面へ伝染し、「ええじゃないか」と踊り出す人が爆発的に増えていった。
10月には京都、大坂、11月には江戸にも伝わった。
空から降ってくるのも、初めは皇大神宮の御札だったが、地域が広がるにつれ、各地の有名神社の御札が降り始めたという。
そのうちには、小判や銀がふってきたとか、美女や生首が降ってきたという噂も広まった。
やがて、男は女装し、女は男装して一日中踊り、裕福な家に押し入っては、勝手に酒を呑みだすなど、東海道全域が無政状態のようになった。
役人が止めに入っても、「ええじゃないか」でおしまい。
だが、そもそも空から御札が降ってくるなんて事が、ありえるはずがない。
そこで、この「ええじゃないか」には、陰謀説が存在する。
倒幕側が世の中の秩序を乱すため、仕掛けたものだったという。
明治を代表するジャーナリスト、福地源一郎は「御札降りは、京都方が人心を騒擾させる為に施した計略なり」と推測し、元勲・大隈重信も「誰かの手のこんだ芸当に違いないが、まだその種明しがされておらぬ」と書き残している。
事実、「ええじゃないか」の影響で、幕府の行政機能は大混乱した。
そして、この時期は、倒幕側が「倒幕の密勅」を含め、倒幕に向けて数々の密議をすすめてきた最終段階でもあった。
この騒動の余波で、倒幕側の動きが隠蔽され、幕府の対策が後手にまわったという事は、十分にあったかもしれない。
少なくとも、自然発生的に生まれた庶民のエネルギーを、倒幕側が最大限に利用したのは、確かなようである。
東海道一帯に短期間に広まったのも、倒幕側が人為的に広めたとも考えられる。
傍証をあげれば、12月9日の王政復古のあと、「ええじゃないか」の大騒動はピタリとやんでしまう。
そして、年明けには鳥羽・伏見の戦いがはじまり、幕府は一気に終焉に向かわざるえなくなる。
なんとも不思議な「ええじゃないか」であるが、これを世直しを求める庶民のエネルギーの爆発と見れば、踊りまくった事は、けっして無駄ではなかったといえるのかもしれない。


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