受験の神様の天神様 | 天神様には、菅原道真が祭られている。『文章博士』と呼ばれる学者であった事、菅原道真の命日が2月25日の受験シーズンだった事から、天神様が受験の神様と言われるようになった |
神社に絵馬を奉納するのは | 絵馬とは文字の通り「絵に書いた馬」昔、神馬といって神様に生きた馬を供える事が行われていたが、そのうち生きた馬が木馬に変わり、そして絵馬になったわけです。絵馬は本来、絵も願いも自分で書くものだが、今は神社でその年の干支を書いたものが用意されている。そして昔は絵馬に名前を書かなかったようだが、今は、自己アピールを強調してか、我先にと神様に願いを聞いてもらおうと、皆、名前を書いているようです |
馬鹿力 | 人間が力を発揮できるのは、筋肉の働きによる。筋肉は筋繊維と呼ばれる細長い細胞が束になって出来ており、この筋繊維に神経を通して刺激が与えられ、収縮することによって筋肉が運動できる。普通は脳から抑制の命令が出されれ(全能力を出すと筋肉は壊れてしまう)最大で50%の適度な収縮に調整されています。ところが、火事や地震などの突発事態になると、脳からの抑制作用が解除され、普段より思いがけない、俗に言う「火事場の馬鹿力」を発揮するのです |
三冠馬 | 一年のうちの三大レース、皐月賞、ダービー、菊花賞に全て勝つと三冠馬という称号が与えられる。出走チャンスがあるのは4歳馬に限られているから、生涯一度の栄光となる。三冠馬になるための三条件として、速さ、強さ、運の三つが必要です。 |
下馬評 | 下馬評とは当事者以外の人が色々と評する事を言う。昔、武家社会で、城門には、馬を降りる『下馬先』があった。殿様はそこから歩いて城内に入った。家来は殿が戻るまで、そこで延々と待たなければならなかったために、家来は暇潰しに、世間話し、噂話し花を咲かせた。役人の異動や大名の国替えなどの話題が多かったようだ。この『下馬先での評判』が下馬評のもとになったと言われている |
野次馬 | 親父馬(オヤジウマ)がつまったもの。老いたオス馬は、体力、権力ともになくなり、もっぱら若い馬のあとばかりついて歩くようになりました。ここから、いつも人の後にくっついて、無責任に騒ぎたてる人を指すようになった。明治以降には「やじる」「やじを飛ばす」という言葉も使われるようになった |
引き出物 | 結婚式の「引き出物」は、昔、来客に対するお土産として、馬を庭に引き出して選んでもらい、その風習から発展したとう事です。引き出物だった馬も、のちには武具などの品物に変わり、今日のような、おめでたい引き出物に変わった |
馴染み | 遊女や芸者のいる花柳界の用語で、初めて遊びにきてくれる事を「初会(ショカイ)」、再度遊びにきてくれる事を「裏を返す」、そして三度目になると初めて「馴染み」と呼ばれる |
乱痴気騒ぎ | 『酒池肉林』の宴の事だが、司馬遷の『史記』の中に、中国の大様、話しだが。大様は愛妾に溺れ、彼女を喜ばせる為にはどんな事でもした。大宮殿を建てたり、大庭園も作ったり。また、大きな穴を堀り、気に入らない女性を裸にして投げ込むような乱暴な事もした。そうしたサディスティックな事も平気で行った。それに飽きると、池を掘って、そこに酒を満たし、酒粕で山を築いたり、その山の上に樹の枝をさし、切り裂いた肉をぶら下げて林に見立て、そのまわりを裸の男女が舞い踊ったという。そして、裸の女性同士にケンカをさせて、勝った者は池の中の酒を与え、負けた者は、酒粕に埋めこんだそうだ。この大乱痴気騒ぎは120日間も続いたと書かれている |
駿河問 | 江戸時代に駿河(静岡県)の町奉公である彦坂九兵衛が考え出した拷問。科人の背中に石を乗せて吊る。その吊る下す縄によりをかけて回転させ、自白させる |
邪馬台国 | 二世紀後半から三世紀前半に女王・卑弥呼が統治した強力な国。『魏志倭人伝』によれば、この国は倭(古代日本)最大の大国で、約30国の小国を従え、魏とも交通したとされている。女王・卑弥呼は『鬼道』と呼ばれる呪術によって、国を統べていたと言われている。卑弥呼の名称は固有名詞ではなく、普通名詞だ。言語的に分析すると、卑は貴い人の接頭語で、男は彦、女は姫といい、これを丁寧に言うと、姫御子、つまり卑弥呼だ。卑弥呼が生きていた当時の日本は、高温期で、遺跡から出る人骨から当時の女性の身長は140センチで卑弥呼は推定150センチだったとされる。卑弥呼は自然死ではなく、殺されたのだ。霊力が衰え、倭国大乱が起き、その責任のために殺されたとされている。王国の所在に関しては、九州地方、畿内地方を始め諸説が飛び交い、『邪馬台国論争』と話題に上がっている。鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか』(第三回創元推理短編賞授賞では、邪馬台国は東北にあったと書いてある。読むと本当に東北にあっような気がする |
馬肥ゆる秋 | 「天高く、馬肥ゆる秋」自然界では寒く厳しい冬に備え、馬は秋に脂肪を蓄えるために『食い込み』を行う。がむしゃらに食べるのだ。ですから、秋は馬が確実に太り始めるのだが。馬は冬越しのためになのだが、人間は充分脂肪を備えているのに『食い込み』をしているのが、不思議だ |
東京駅 | 東京の中心に当たる場所に大きな停車場を造って、東海道、東北、中央の幹線のかなめにしょうという考えの下、造られたのが今の東京駅。開業は大正三年。東京駅の命名は、当時、新宿、上野、品川と、東京内には沢山の駅があったので、いまさら『東京』という名前は避けようとい声も多かった。そして『中央駅』という駅名も候補に挙がったが、『中央』では分かりにくいということで、日本全国に一番わかりやすいという事で、やっぱり『東京駅』落ち着いた。その余韻で、梅田駅は大阪駅、七条駅は京都駅というように改名される事になる |
練馬大根 | 練馬大根の父は徳川綱吉だ。脚気を患い、これが治らないので、占い師に占ってもらうと「江戸城の西北の馬の字のついたところで養生すると良い」との事。早速、地名に『馬』のつく『練馬』に引っ越したものの、毎日が退屈で仕方がない。そこで、尾張(愛知県)から「宮重大根」の種を取り寄せて、大根の栽培を始めた。これが、練馬大根の始まり |
大根役者 | めったに中毒をおこさない(当たらない)ところから、当たらない、つまりヘタな役者を大根役者と言う |
駅弁 | 日本第一号の駅弁を売ったのは東北本線の宇都宮駅だ。明治18年7月16日、日本鉄道株式会社によって、上野ー宇都宮間に鉄道が開通した。この時、宇都宮市伝馬町の旅館業白木屋の人が、たまたま泊まって日本鉄道の重役のすすめで、宇都宮駅で食物を売った。その中に駅弁があったのだ。その駅弁とは、黒ゴマをまぶした梅入りの握り飯二個に、たくあんを添えて、竹の皮で包んであり、値段は5銭だった |
馬鈴薯 | 群馬県の軽井沢に近い長野原地方ではジャガイモを収穫すると、馬の背に振り分けにして高崎、前橋方面に出荷していた。その途中で熊に襲われたら大変だという事で、馬の首に鈴をつけた。そこからジャガイモを馬鈴薯と呼ばれるようになった。しかし、別の説もある。ジャガイモの根茎が馬の金玉に似ているという事でだが、それでは露骨すぎるので、金玉を言い変えて、馬の鈴に似たイモ(薯)ということで、馬鈴薯となったという。どちらが、本当なのでしょうか? |
駄目 | この『駄目』の目は、もともとは碁の用語なのだ。囲碁は領地争いなので、目を多く取った方が勝ちになるわけですが、しかし、目を取り合っているうちに、自分の領域にも相手の領域にも属さない無駄な目が出来ます。この無駄な目が碁の世界で言う『駄目』というわけです。 |
落馬説 | 鎌倉幕府の創始者である源頼朝は、1199年に橋供養の帰りに落馬して死んだという事になっているが、真相は、夜道で誰かに殺されたらしい。英雄色を好むというが、頼朝も大変な女好きで、この夜も女の所へ忍んでいこうとして、痴漢と間違われ殺されたようだ。天下の頼朝が、こんな死に方では格好が悪いと、側近が落馬説を作りあげたのだ |
あて馬 | 競馬の種つけの時に、メス馬の愛情を呼び起こさせるためだけの役目をつとめる気の毒な馬。血統が重んじられる競馬界では、より優れた競走馬を生産する為に、優秀な成績を上げた馬が引退すると、これらの馬の子孫を残す為に数頭の馬に種つけする。この種つけの時に、種馬に変わって馬相のいい馬が選ばれ、あて馬として使われる。努力して相手をソノ気にさせ自分もソノ気になっても、イザ本番になると、種馬にとって代わられてしまうのだ。 |
駆け落ち | この駆け落ちという強行手段は、戸籍に登録された者が失踪したために戸籍から「欠け落ち」る状態を言ったのです。もともと近世の宗門人別改め制の中で、一般庶民の失踪を欠け落ちと言ったのだが、いつのまにか、男女が結婚出来ないのを悲観して、連れ立って逃げる事を駆け落ちというようになった。また、日本では親に反対された恋人同士が駆け落ちしも法的には責められないが、フィリピンでは重大だ。フィリピンはカトリック信者の多い国なので、性道徳に関しては、特にやかましい。何しろ、大人達の監視が厳しいので、若者達の恋愛もままならない。その上、親に結婚を反対されたら、もう絶望的。そこで駆け落ちにいるのだが、見つかると性犯罪に問われるのである。それなりの覚悟が必要だ。 |
馬敬礼 | 江戸時代の隠語で、馬が見て、頭を下げるくらいでかい男性自身の事をいう |
駆けつけ三杯 | 飲み屋で、先に来ていた人が、遅れてきた人に「駆けつけ三杯だ」と、無理に酒をすめるが、これは先に来ていた人がすでに何杯か飲んでおり、遅れてきた人に、三杯ぐらい飲んでもらわないと、気に飲んでいる人の酔い方に追い付けないという事だ。一人で白けていては酒の席はツマラナイ。駆けつけ三杯は、同じ意味で「遅れ三杯」とも言う |
人間万事塞翁が馬 | 昔、中国のある町に住む老人の馬が逃げたが、老人は悲しみにくれなかった。やかて、その馬が駿馬をつれて帰ってきました。人々は祝いましたが、老人は格別喜びませんでした。やがて息子がその馬で足を折りました。人々はなぐさみを言うと「いや、なに」と悲観しません。後に戦が始まり、若い者は戦死しましたが、その息子は怪我の為に兵隊に行けずに、老人と無事に暮らした物語です。つまり、人生には幸福があったり、不幸があったりするという意味で、不幸不遇な人を慰める時に使う |
駐車違反 | 駐車違反は、刑法上の罪とは事なり、単なる道路交通法の違反なので、前科にはならない。前科とは、刑法上の罪を犯した場合のみなるもので、たとえ罰金刑でも前科という場合もある |
駅から3分 | 不動産関係の広告に「駅から3分」という表現が、よく使われている。よくこれでトラプルの原因になるのだが。「駅から3分」書いてあるから、実際、歩いてみると三十分かかる。「どういう事だ」と、業者に聞くと「これは車で行った場合です」と。「宅地建物取引の表示に関する公正競争規約」という法規の中で、1分は80メートルと決められるようになった。つまり、3分なら240メートルだ |
馬より速い騎手 | 1977年10月、シンシナティー・リバーダウンズの競馬大会での事。R・Gペントリーは、乗っていた6番のルナ・ポニータから落馬してしまった。それだけなら、よくある話しだが、彼はそのままトラックを走り出し、馬より先にゴールを駆け抜けたのだ。勿論、彼は失格だったが、落馬しても怪我一つもなく、しかも馬と競争して勝ったジョッキーとして大きく話題になった |
競争馬命名 | 競馬出走表を見ると、様々な馬名がある。馬名は自由につけても良いが規定がある。カタカナで九文字以内、さらに不快な名前や商品PRにつながる名前は禁止されている。かつての馬でおもしろい名前を見ると、金的を射止める矢にあやかった一文字の『ヤ』を始め、『カネツカーム』『カチタガール』『カツバンザイ』『イチバン』などのあやかり組。メス馬でおもしろいのは『オトコマサリ』『オテンバ』『モーレツクイン』など。また『モーナイ』『マンガ』など、こっけいな名もあった。 |
初競馬 | 馬を走らせて競うというのは、かなり古い時代からあった。いわゆる洋式競馬が我が国で最初に行われたのは、1861年の事、横浜元町でイギリス人の主催ので行われ、中国対日本のレースでした。現在のように馬券を発行して開催されるようになったのは、明治21年からだが、もの凄い人気だった為、明治43年には競馬禁止令が発令された。そして、大正12年に復活し、以後、戦争中を除き現在まで、庶民の娯楽として親しまれている |
駆け込み寺 | 江戸時代には離婚を望む妻が、俗に駆け込み寺(縁切寺)へ逃げ込む事がたびたびあった。寺では、夫婦の親や仲人を呼び出して、離婚の話しをさせた。当時の寺は、権威が非常に強かったので、たいがいの夫は渋々離婚に応じた。はれて、女は実家にかれたのだ。しかし、夫が承諾しないと、二年間の寺修行を行う事になる。この場合、生活費は全部親の負担。家柄や納める金額の大小により与えられる仕事の内容が違っており、年季奉公のようにキツイ労働をさせられた女性もいました。そうして二年経ってから、やっと離婚できるのである。有名な駆け込み寺に鎌倉の東慶寺がある |
春駒 | 鹿児島の銘菓に『春駒』がある。鹿児島特産の黒砂糖に米粉、餅粉を加えて作った郷土色豊かな一品だが。このお菓子、今でこそ長さ17センチほどの、ほっそりとした形をしているが、その昔は直径5センチ、長さ30センチもの巨大菓子だった。名前も『春駒』ではなく、一見、馬の下腹部のモノにそっくりであった事から『ウマンマラ』と呼ばれていた。では、なぜ、ウマンマラが春駒になったかと言えば、大正天皇が鹿児島に旅された折りに、他なせぬこのウマンマラが献上された。天皇は当然の事ながら「この菓子の名は?」と尋ねたが、困ったのは時の県知事。まさか、その名前を口にするわけにもいかず、返答に窮してしまった。その時、側にいた侍従が、とっさに「春駒です」と答え、その場をとりつくろい、一件落着となった。それ以来この珍菓は春駒と呼ばれるようになった。 |
馬券 | 昭和53年11月の菊花賞、5000万円の馬券を買った謎の男がいた。この男が現れたのは、小倉競馬場場外馬券売り場。勿論、5000万円の現金を支払い「馬券は当たったら、取りにくるから置いといてくれ」と言い残して去っていった。さて、レースは人気・実力馬だったトウショウボーイとテンポイントか一、二着に入らずに大荒れ。男の買ったトウショウボーイがらみの馬券は全て紙屑になった。結局、男はそのまま姿を見せずしまい。思い切った買い方に男は、時効も過ぎ、ほとぼりのさめた3億円犯人ではと、当時は話題になった |
勝負服 | 競馬の騎手が身に着ける華やかな色や柄の服を『勝負服』と言う。この勝負服、中央競馬の場合、全て馬主が登録したもので、騎手個人の勝負服はない。競馬法の定められている色は、赤、桃、黄、緑、青、水、紫、薄紫、茶、えび茶、ねずみ、黒、白の13色。組み合わせの柄についても、輪、帯、山形(ひし山形、のこぎり歯形)、たすき、縦縞、元禄、ダイヤモンド、うろこ、かすり、玉あられ、星散らし、蛇の目、銭形散らし等があり、種類は決められている。勝負服の地色と、つけている柄とで二種類以上は使えない。勝負服は上質の絹製で、東京府中の市にある専門店で作っている。高級なものになると一着10万円を越すものもある |
馬券 | 競馬は、馬も馬券も競馬新聞も売る方は黒字、買う方は赤字なるギャンブルだと言われている。それは中央競馬の場合、馬券売上高の約75%が配当金。つまり、25%の天引きされているのだ。この25%のうち、10%が国庫、9%は中央競馬会の取り分、6%が馬主・騎手の賞金にあたる |
馬 | 明治38年、『各国語に於ける馬』という本を出版した渡辺良は、世界中から『ウマ』という言葉を476種類集めた。学習院教授の渡辺は『ウマ』を60の言語系統に分類しているが、日本語のウマに近い発音は、アイヌ語の『ウンマ』と、南米ベネズエラのアラワッタ語の『アマ』と書いてある。馬の音読み近い『アマ』なら中国語を中心に、タイ、ラオス、ヒマラヤ近くのギヤミ語まで通用しそうだ。短いのでは『タ』(チベット語)、『ロ』(ハンガリー語)、『ハ』(ホッテントット語)などがあり、反対に長いのではアフリカ南西部の『オカカンベ』(バンツー語の一種)や、アメリカ・インディアンの『イツアツカ』(ポニー語)がある |
坂本龍馬 | 日本の男性が最もロマンを感じる人物が坂本龍馬だ。龍馬が幕末の動乱の羊歯にその青春を過ごし、日本の歴史を変える大業を成し遂げたという点に、魅力がある。龍鵜は、京都でたひたび新鮮組おどの剣客に襲われた。北辰一刀流の免許皆伝者だった龍馬は、昼間に剣客に襲われると見事に打ち倒すのだが、夜襲にあった時は、相手の隙を見て逃げてゆくのが、常だったようだ。これは、龍馬が近眼で夜眼がききにくかったからだ。が、龍馬が見そめた、おりょうやお田鶴・千葉さえ子とい女性は皆美人たったいう事は、女性を見る目は確かだったようだ |
駅 | 新橋・横浜間に鉄道が開通したのは、明治5年10月。当時、この間は一日かがりで歩いた距離だった。ところが、蒸気機関車だとわすか、53分。横浜に着いても降りようとしない乗客は沢山いた。「いくら早いたって、こんなに早く着くはずがない」「まだ川崎あたりじゃないか」との声もあがる。おそらく「横浜に着いた事をわからせる為には、一日かかる」というくらい、当時の感覚では早かった。ちなみに、当時の新橋・横浜間の運賃は、上等一円十二銭五厘、中等七十五銭、下等三十七銭五厘だった |
馬面 | 長州藩(山口県)は幕末にいくたの傑出人材を世に送った。中でも高杉晋作は吉田松陰とともに、この人物が生きていたら明治は変わっていた、と惜しまれてつつ夭折した男として有名だ。高杉は馬がびっくりする馬面だった。彼は、1863年、奇兵隊を組織して、外国船のため風雲急を告げる馬関(下関)に馬を走らせた。これを見た人々は「こりゃどうぢゃ、世はさかさまになりにけり、乗った人より馬が丸顔」という狂歌を詠んではやしたてたと言われる。現在、下関市郊外にある日和山の上、関門海峡を見下ろす場所に高杉晋作の銅像があるが、銅像をが大きいため。下からでは顔の長さがわかりかねる |
© 1997 matomo@eirene.dricas.com