自分教とは、自分の為の宗教なのだ。だから既成の宗教のように騙されたり、矛盾した教義を学ぶ必要はない。ご本尊様に唱題したり、お布施をしなければ幸せになれない等と馬鹿げた話はない。幸せはご本尊とかお布施とかとは関係ないところにあるのだ。ご本尊、お布施で得られる幸せは、その宗教内での幸せだ。限りもある。しかし、自分教には限りがない。自分教とは、自分の心の中に石を持っていると考えていただきたい。その石は磨けば磨くほど輝くのだ。希に生まれついて少しだけ輝きを持っているいる人もいるが、その石は誰もが輝きを持つ事が出来るというのが、自分教だ。自分の心の中にある石だから、自分の力で磨かないといけない。他人が磨こうとしても、変に磨かれるのも当然だ。
その他人とは、既成の宗教という事だ。さっきも書いたように、自分教には限界がない。既成の宗教に入信していては、たとえ良い宗教でも、その教祖を越えるような人にはなれないのだ。その教義自体についても、自分にとっては限度があるので、それ以上の事を求めても無理がある。それた、他人教だからである。他人から邪魔されず、他人の限界の壁に閉じ込められずに、自分教を信教するには、まず、『自分を見つめる』事からはじめる。自分を突き詰めてみると、次第に、自分のやりたい事、なにを掴めば幸せになるかが、見えてくる。それは人それぞれ違う。自分教には、人間それぞれ個性があるように、それぞれの自分教がある。谷口教、山本教、田中教、小川教、本多教等。自分教は、自分の為に存在するので、不幸になる事や、裏切られる事はない。自分で自分を裏切る人はいないだろう。既成の宗教では、自分を輝かせる事は出来ないのだ。人の宗教だからだ。坂本龍馬も言っている。「人を慕ったり、人の真似をしたりするな。釈迦も孔子も、シナ歴朝の創業の皇帝も、みな先例のない独創の道を歩いた」と。親しい人が、その宗教に入っているからと言って、自分も入る必要がない。人の宗教は所詮、人の宗教。自分の枠の範囲で、無限の力を出した方が、どれだけ素晴らしい事か。宗教団体に入った人は、洗脳されてか、自分の自分を磨くのを辞めてか、皆、その簡単な事に気づかない。他人を信じないで、自分の宗教を信じる事だ。自分教は自分のレベルで、自分のやり方で自分を磨く事が出来る。その中で自分がもっとも輝いていけるのだ。例えば、言葉であるが、ある人にとっては感動的な言葉でも、万人を感動させるとは限らない。経験、環境、自分のレベルによって、感動も人それぞれのモノがある。自分事、本命竜馬の本命教の中では、その言葉をノートにまとめている。すでに、今、現在までに十五冊になっている。自分自身の教本を作っているわけである。例えば、その中のもを書いてみると『生きている借り、可能性は無限だ』『成功は過程であり、失敗は終点ではない』『何とかなる』『俺は一人で生きているのではない』等、書いてある。その教本は、日記であったり、エッセイてあったり、小説てあったり、出来事の集結であったりする。それても、かまわない。やはり、自分の経験から出た言葉は凄味がある。名言である。そのノートは、自分て書いているので、嘘はない。他人の教義は、どことなく、うさん臭い。今更言わなくても、子供でも知っている事を、大の大人が、演説している。馬鹿馬鹿しい。また、自分教は生きている限り誰でも出来る。金が無い人、仏壇を家に置けない人、寝たきりな人、子供でも、自分を見つめる事ができる人なら誰でもできるのだ。ある宗教団体はご本尊を家に置けるかと、入信する時に調べにくるらしい。そんな馬鹿な話しはない。自分教はそんなマヤカシに頼らなくてもすむのだ。自分さえいれば、すむのだ。勿論、勧誘する必要がない。勧誘は人が集まらないから、そうするものであり、勧誘しなければ広がらない宗教はマヤカシの宗教だ。断言してもいい。もっと、自分教について、説明すると、宗教は大きく二つに分けられる。自分が先ほどから言っている自分教と、他人教だ。自分教とは自分の為の宗教、自分が教祖となり何でも決めて、自分で、やっていかなければならない。他人教とは、幸福の科学、創価学会等の規制の宗教の信者になる事だ。自分が教祖になるか、信者になるかの差である。自分が教祖になれば、それなりの苦労があるがその苦労は確執に自分の為になる。はっきり言えば、信者になる方が楽なのだ。何でも与えられたモノて勉強し信仰しゆけばいいのだから。それなりの満足はあるが、騙されたり、自分で何でも出来ない人になってしまう。第一、他人が作った宗教に、全く不信感がないと言うのも、それこそ、自分で何にも考えられない証拠ではないだろか。宗教は人の幸福を考えていると言うが、人それぞれ幸福は違うのだ。平凡我幸福だと言う人もいれば、目標に向かうのが幸福だという人もいる。よく、他人教に入信する人は、この宗教を知る前までの自分は不幸の真っただ中にいると信じている。「金がない」「一生懸命やっても、会社では認めてもらえない」「恋人ができない」などと。マイナスイメージの固まりである。現実逃避したいから、誰かにすがり、他人教を始めている。宗教にのめりこんでも、実際には、現実は変わらないのである。宗教団体にはいれば、回りの人々は優しく相談相手になってくれるが、それは、貴方が金ヅルだからである。錯覚しているのてある。よーく、考えてみてくれ。確かに、人から優しくされれば、何か希望が見えてくるが、現状は現実逃避しているわけなので、最後には自分でなんかしなければならないのてある。自分教に目覚め、自分で打破しないと現状は変わらないのである。「恋人が欲しい」と百万回言っても、何も変わらないのである。自分のタイプの異性を考え、それを手に入れるには、どうすれば良いか考え、実行。失敗したら、再度、考えて実行。失敗するうちに、自分なりの方法が見つかるはずである。仕事でも同じである。仕事をうまくするには、何を今すれば良いか、考え、考え、考え、実行。失敗も反省材料の一つと考え、人から何を言われようと、自分なりの方法て打破しなければ、成功はありえない。一番これを実証できるのが、他人教の代表者や教祖をみてみれば、わかるだろう。ただ彼らは、自分だけで宗教を信仰していけばよかったのを、自分教を他人まで押し付けた結果、数多くの信者が迷ってしまう結果となっている。他人教を信じるのもいいが、いつか自分で道を切り開かねば、ならないという事を、わかって欲しい。しかしながら、他人教の良い部分を、自分教に取り入れる行為は良い事なのだ。自分教をもつとレベルアップを図るには、一つの他人教より視野を広げて数種の他人教を研究するというのも一つの方法だ。例えば、一人の人と友人になる場合、相手の全てを信じて、友人になる人はいない。いるとすれば、馬鹿だ。相手を自分の友人と認める場合、相手の悪い所は妥協して、良い所ばかりを評価している場合が多い。その良い所、悪い所の比較の程度が、友好度に関係する場合があるが、友好期間によって、相手の悪い所をその人の個性として認めてしまうケースも多分にある。アイツだから許せるというケースだ。宗教も一緒だ。教義、教祖または代表者が全てが完全なわけがない。あしあれば、皆がその宗教を勧誘されなくても信じているはずだ。完全な宗教が世にないのは、人間の欲が宗教団体に反映されているからだ。教祖の欲、代表者の欲、幹部の欲が、教えの中身や活動内容に反映されて、信者はうまく利用されて、結局は信者は信者なりの幸福感しか味わえないのだ。本当に良い宗教なら、勧誘する必要ないのだが。自然と広がってゆくのだから。他人教は自分教をつくるにあたっては参考になる。他人の振りみて我が身を直せだ。よく、自分の型に合わない他人教に狂信する信者は、その宗教の悪い部分を目をつぶり、何を勘違いしたのか、間違った考え方さえも宗教団体の代表に洗脳されてしまっている。他人教に少しでも疑問を持ったら、当たり前の事だが、他人教の幹部や代表に相談せずに、自分の頭で考えなさい。他人教の幹部や代表は、絶対にその宗教団体の悪口は言わないのだから。何かしらの『言いつくろい』を考えているはずだから、それこそ、洗脳の始まりなのだ。何が悪かと言えば、自分の考えを人に強制する事だ。他人教の全てが悪いとは言わないが、既成の宗教団体は一部の考え方のみを信じなさいという教えはない。宗教団体に入れば、その宗教団体の全てを信じなければならない。宗教団体を統制する以上、宗教団体の規律を信者に守らせるのは、代表・幹部にとって、大切だが、強制するのはよくない。人間は一律ではなく、人それぞれ違う事を代表・幹部は無視している。宗教にとっては、それが一番大切なのに、一番大切な事を無視して、何が宗教だ。名誉欲、金欲に目が、くらんでいるのか。それだから、いま現在そういう事がなくても、いつかは平気で人を殺せといえば、信者が人殺しする宗教団体になつてしまう。既成の宗教団体全部に、そういう部分がある事は事実だ。人間個人無視の性質がある以上。他人教を信じている者、辞めた方がいい。結局、自分は自分、他人のふんどしでは、道は歩けないのだ。何も立派に見せる必要はない。自分らしい生き方をする事が、幸せの早道なのだ。今後、世界人類全てを納得できる宗教は生まれない。一人、一人の自分教が集まった集団ができても、世の中、馬鹿な人たちが多いので、人類全員が自分教をやるとは思えないが、少なくても俺の周りの人たちや、このホームページを見ている人たちには、自分をみつめ、自分の力で幸せをつかんで欲しい。簡単に言えば、自分教とは、個人個人が教祖・代表者兼信者になるわけだから、宗教の勧誘のやり過ぎて、友達を無くしたり、財産を失う事はないのだから。だから、自分の自分教を考え作ってみませんか。
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