2025年の旅行
鹿児島同窓会編 新千歳空港日帰り編 北海道マラソン編 鹿児島マラソン編 越後湯沢編 鹿児島編
10月12日(日) 阪急国内ダイナミックパッケージ スカイマーク利用 九州 2日間の旅 航空機利用 ホテル・レクストン鹿児島 洋室(禁煙) バス・トイレ付 シングル チェックイン開始日時 2025/10/12(日) 14:00 37,500円。ご利用ポイント-1865円 合計35635円 8月3日、多田からメッセンジャーで連絡が来る。一つ下の後輩達が同期会をするから、先輩方もどうですか?と。それで、集まることに。久留も来ることに。すぐに電話が掛かる。久留、介護の仕事をしているとか。10日、請求しているよう。 9月20日に久留からLINE『こんばんは! お店ですが、「吾愛人中央駅西口店」で予約ができました。今のところ、酒瀬川、平山、矢野、安永、山口、村木、竹之下、村永、中野、鹿島、の10名と久留さんの代5名で15名です。石田の返事がまだですが、16名の17:30からで予約入れました。食事は飲み放題、税込6,000円でお願いしようと思います。10月に入って人数と一緒にお店に連絡入れたいと思います。皆さんにお伝え下さい。よろしくお願いします。吾愛人 中央駅西口店』 10月12日の日曜日、大学時代、アーチェリーしていたので、その同窓会。 40年振りに会う。 もう顔が分かるかどうか・・・ 出席者は、同期では、自分、多田、中村、田中、久留の5名。一つ下の後輩で、酒瀬川、平山、村木、竹之下、村永、中野、鹿島の10名。石田が来るかどうか分からないが、16名の参加者。 同期は分かるが、4年間一緒だったのに、村木、竹之下、中野が全く印象がない。 40年という月日はそういうものである。 久留から、連絡があったが、顔写真もLINEで送ってきた。 相当、おじさんになっていた。 もし、すれ違っても、分からないかも・・・ 色々と、学生時代の事を思い出したいので、ここに記することにした。 実は、一回、この日記を書いたのだけど、酔っぱらって10000文字の日記を消してしまった。 今度は消さないようにしたい。 まずは、アーチェリーの記録から・・・ 1983年(大学1年生)9月8日 50M 115点、30M 178点、合計 293点 初練習。 1983年(大学1年生)12月4日 50M 232点、30M 272点、合計 504点 鹿児島アーチェリー学生新人選手権。第3位。立派な盾をもらう。50Mまではダントツのトップだったけど、30Mで落ち込み、ヒット数で負けて3位になった。 1984年(大学2年生)5月20日 50M 269点、30M 316点、合計 585点 青年男子4位、総合10位。部内でも1位。賞はもらえず。前日、酒を飲み過ぎて無意識の勝利 1984年(大学2年生)7月1日 50M 243点、30M 309点、合計 552点 青年男子6位、総合?位。部内でも2位。 1984年(大学2年生)11月25日 1試合目50M 237点、30M 273点、合計 510点 2試合目50M 219点、30M 304点、合計 523点 試合、学生選手権のダブル。 1985年(大学2年生)3月24日 50M 277点、30M 304点、合計 581点 30Mはプラ23(323点ペース)だったけど、後半落ち込んだ。 1985年(大学3年生)4月1日 50M 273点、30M 327点、合計 600点 マラソンで言えば、サブ4の600点達成。2ラウンド目で達成。ヨシヒロが600点を出しそうなので、周りがザワツいている間に達成。平山が気づく。 1985年(大学3年生)6月14日 90M 230点、70M 247点、50M 259点、30M 309点、合計 1045点 平和台球場。初のオールランド。練習。 1985年(大学3年生)6月16日 90M 212点、70M 255点、50M 265点、30M 302点、合計 1052点 初のオールランド試合。福岡で行われる。 1985年(大学3年生)6月24日 50M 280点、30M 323点、合計 603点 自己ベスト。 1985年(大学3年生)6月30日 50M 183点、30M 315点、合計 498点 風が強い。1本射ち残しもあった。狙いが定まらず、何度も、引き戻しをした。 1985年(大学3年生)7月7日 50M 277点、30M 303点、合計 508点 後ろが石野さん、前が東さんでウルサイもあり、緊張した。 1985年(大学3年生)8月25日 90M 53点、70M 167点、50M 202点、30M 3297点、合計 718点 全九州選手権。熊本。50Mと30Mが鹿児島県の国体予選も含まれていた。 1985年(大学3年生)10月10日 50M 256点、30M 306点、合計 562点 最後の試合。久留との競争に勝つ。矢が6本しかないのに、ノック(矢が壊れる)をやり、急遽、多田から矢を借りて射った。 1985年(大学3年生)10月30日 50M 236点、30M 314点、合計 550点 最後の練習。引退。多田のシャフト(矢)で射った。 アーチェリーの的は、中心に向かって、白、黒、青、赤、黄色で構成されている。 白が1点と2点、黒が3点と4点、青が5点と6点、赤が7点と8点、黄色が9点と10点。 アーチェリーの練習の基本は50Mと30Mの36射。試合形式。 それぞれの距離で、6本の矢を6セット射つ。 そうなると、1セット60点が最高得点で、30Mを試合で射つとなると、6セット360点が最高になる。 50Mと30Mとでは720点が最高。 自分の感じだと、600点を出すと周囲から評価してもらえる。 中級レベル。 500点は、初心者から中級なるくらいだろうか・・・ マラソンで言えばサブ4クラスにだろうか・・・ 世界記録は720点満点で702点、日本記録は692点。 雨の日は、バレーボールとかもしたような・・・ 練習は大学のアーチェリー練習場でやった。 部室に弓を置いて、練習のたびに、練習場に弓を持って行ってた。 そもそも、アーチェリー部に入ったのは、モテたいから。 野球やテニスだと、小さい頃からやっている人も多く、マイナーなスポーツなら、スタートラインは一緒なので、うまくなれて、ヒーローになれるんしゃないかと、ヨコシマな考えがあった。 ところが、スポーツ万能の緒方が入部してきた。 当時、ヒーローだった荒木大輔と投げ合った事もある。パレーボールでも、強くアタックを打つと、相手チームが怪我するからと、手を抜いて打っていたようだ。 そんな緒方と一緒だとは・・・ 同じアーチェリー部所属前は、あまり、好きじゃなかったけど、けっこう自分を車で送ってくれたりと、優しい一面もあった。 1年の頃は、福永、白川と、よく遊んでいた。 姶良に帰る福永に電車で、西鹿児島駅で降りずに、そのまま姶良までポテチを食べながら、白川と送ったりしていた。 福永、白川とバンドを組む話しも出ていた。 チェッカーズみたいに売れるぞ〜とか思いながら・・・ 白川がギター、福永がドラム、自分はベース。 白川の家で、ヴァンヘイレンのJumpをよく聴いていた。 そんな白川もすぐに家庭の事情で大学を辞めていった。 清掃の仕事をしていたとか・・・ 辞めてからは、数回しか会っていない。 福永は数年前に亡くなっていた。 大学の時は、よく遊んでいた。 鈴乃屋に勤めて、色々と福永に協力してあげたけど、あまりにも色々と「買ってくれ」と言ってくるので、「そろそろコネを使うのは辞めたら。あまり向いていないじゃない」と言ったら、それ以降は連絡がこなくなつた。 自分も、気まずさから、連絡はしなかった。 いつか、言い過ぎたと謝ろうと思っていたが、亡くなったので、叶わなくなった。 白川が大学を辞めてから、多田と遊ぶようになった。 野球のソフトのファミコン(ファミリースタジアム)でよく遊んでいた。あと、鉄道王、マージャンゲームとか・・・ 多田のアパートは、大学近くだったので、よく立ち寄った。 そんな多田、自分と同じく留年することになる。 自分の場合、バイトやアーチェリーの練習とかで、講義に出ていなかった 。それで、大学の教務課の担当者?が心配して、親に連絡がきて、叔母と大学に呼び出される。 「根性ない男だ」とまで担当者に言われ「卒業までに早くて2年は掛かる」と言われた。 何となく、カチンと来て「1年で卒業とます」と宣言。 担当者は「今までが今までだから、無理だと思うけど・・・」と言っていたが・・・ これから、頑張りますからと約束して、心を決めた。 自分の大学は、当時大学5年からは単位をスケジュールが合えば、無制限に修得できた。 それで、スケジュールを組んだらちょうど、卒業できる単位数になった。 大学4年で取らなければならない136単位中、半分以上76単位しか取っていなかった。 それで、多田にも、スケジュールを組ませたら、同じように、卒業出来る単位数になった。 1年で卒業するには、高校生並に講義に受講しなければならない。 夏休みも、夏の補講まで出なければ、卒業できない。 ちなみに、その年に書いたレポートは・・・ 社会政策論「現代の社会政策学と労働経済学」(34枚) 銀行論「マネーサプライズ特長」(合計21枚) マーケティング論「マーケティング概念の歴史的変化」(24枚) 経営管理論「鹿児島の企業倒産の現状と倒産回避の方法について」(11枚)色々な企業30社以上の社長・幹部に電話してインタビューしたのをまとめたもの。掛けた電話は、柿原製菓、太田パン、カバヤ食品、池田パン、不二家、まるい食品、沖電気工業、セイカ食品、江藤建設工業、大成組、三純重機建設、一二三照会、田原建材店、中澤アルミ建販、宮下商会、積水ハウス、東洋ハウス、ミサワホーム、鹿島建設、大成建設、大和ハウス、渡辺組、トヨタ自動車 数理経済学「マクロ経済学諸問題」(6点) 板倉ゼミ「企業秘密の漏示について」(1年で何枚書いたか推測もできず) 自分を大学に呼びだした担当者は、心配してくれて、実家にしばらく電話をしていたみたい。母から聞いていた。 担当は、当時、5年目で最大単位を修得できて卒業した先輩もいるという事で、後輩を頑張らせていたようだ。 多田がいなかったら、卒業できなかったかもというぐらい、多田と励まし合ったりして、5年目を過ごした。 多田も同じく、自分がいなかったら、卒業出来なかったかもと、言っていた。 ゼミの板倉教授も心配して、商法のテストは名前だけ書いたら、単位をくれるからと言ってくれた。 ゼミは、多田と2人での教授室でコーヒーを飲みながら、発表。卒論も毎月のゼミでのレポートで良いと免除された。 最後、板倉教授と3人で呑んだことは、今でも忘れない。 考えてみれば、その板倉ゼミ、最初は、自分が面接を希望していたので、こなかったので、不合格になっていた。 第2志望で希望して、誰かが希望がなければ、相談に乗ると言われていた・・・ 結局、抽選になって、ゼミに入れた経緯がある。 今でも、多田とは、一生の友達だと思っている。 多田の結婚式も、民間の企業を辞めたときだったので、忙しくもあり、お金もない時期だったけど、宮崎のあの延岡まで、駆けつけた事もあった。 アーチェリー部も、予算を増やそう学祭では、模擬店をやっていた。 何をやったかは、覚えていない。 自分は、バイトを色々としていたので、知り合いも多く、ダンスパーティーやミニコンサートのチケットをだいぶ売ることが出来た。 それで、人を模擬店に呼び寄せる役だったので、模擬店の参加を免除されていた。 だから、模擬店の経験がないので、今、思うと寂しい気がした。 久留は、浪人しているので、一年上だけど、同期になる。 大学時代は、あまり、サシで話した記憶がない。 久留は、大学卒業後に、電気会社に勤めていた。 大学卒業してバリバリ働く久留と、留年している自分とでは、話しが合わないと思い、電気会社にも遊びに行かなかった。 いつだったか、その電気会社が倒産していたので、さらに電話しづらくなった。 中村も、足が悪いので、あまり話した記憶がない。 ただ、遠征帰りに、よく中村の親戚の家に立ち寄り、ご馳走してもらった記憶がある。 田中さんは、女性だけど、アーチェリーの練習を人一倍、練習していた。 だけど、中々、成績が伸びなかった。 一度、病んでるのではないかと、心配して、多田と夜中に田中のアパートに言ってみると、2つ上の先輩・浜田さんの車があった。 外から、浜田さんのボソボソとした声も聞こえてきて、田中さんの泣いている声が聞こえたので、こっそり帰った事もあった。 それから、少したって、田中さんも成績が伸びて、部の全員が喜んたのが嬉しかった。 みんなが田中さんの成績を伸びてほしいと願っていたと知る。 福永が市内の一軒家に住んだことがある。すぐにマージャン室になった。 先輩や後輩が入り乱れていた。 後輩に講義の代弁を頼んで、マージャンをしていた。 今日は、帰ると言いながらも、マージャンしていた。 福留にタバスコ入りのパスタを食べたさせられた時は、死ぬかと思った。 よくマージヤンでの朝帰りで「こんな大学生活で良いのだろうか」と思ったが、また福永の家でマージャン。 今回の同窓会には来ない林とも仲が良かった。 林が東京に住み、自分も東京に住む事になる。 その時、歌舞伎町で呑むことになった。 それから、林に彼氏が出来て、3人で渋谷でもよく呑んだ。 しばらくして、また呑もうと電話すると「明日、結婚するの」と言われた。 それ以来、電話を掛けづらくなり、会っていない。 同窓会には出席しない後輩の古川も仲が良かった。 卒業してから、一度、OBと在校生のに二人で出席したことがある。 在校生の時は、すごい呑まされ続けていたけど、OBだと気軽る。 最初の挨拶で「横浜に住んでいる」と言うと、羨ましげに見られた。 その古川と、自分が民間の企業を辞めて、地元に戻り、理学療法士になるために、専門学校で勉強していた頃、どうしてもストレス発散したく、古川に荒尾競馬場まで連れていってもらった。 古川は女子校の先生をしていた。 車の中で色々と悩みを聞いた。 今頃、どうしているだろうか・・・ 福永の子分的な存在のヨシヒロも今回の同窓会には出席しない。 どうしているだろうか・・・ 後輩の鹿島は、おちゃけたキャラの持ち主の女の子。 よくからかって、かわいがった記憶がある。 後輩の矢野とは、幹部の時の練習の指導係。 色々と言うと、真面目なので悩む性格だと思い、聞かれたらアドバイスするという形を取った。 その代わり、矢野が射つ時はフォームを観察していた。 その矢野、何かの大事な日の時に、朝が弱くて、起きれないと言うので、心配になって、アパートまで行き、起こしてあげた。 そしたら、ネグリジェ姿で出てきて、目のやりばに困った記憶がある。 その矢野とは、偶然か、同じ自動車学校に通った。 同じぐらいに卒業した記憶がある。 アーチェリー部専門店らにはもお世話になった。 OBの永留さん、卒業前に数千円借金があったが、出世払いで良いと言われ、未だに返していない。 そういえば、出世払いというと、お金が戻ってこないと嘆いた。 新人時に、夏休みにハイトして10万ぐらいの弓を買った。 4月だったか、筋力をあげて、弦を引くときに強い弓を買うと、風に影響しないとアドバイスされた。 それで、腕立て100回、背筋100回、腹筋100回をめざすが、最初は筋肉痛 がヒドク、中々、出来ない。 しかも、一人では根負けしていた。 それで、4月の時よりは強い弓を買った記憶がある。 新上橋のアーチェリー専門店行くと、いつも誰かがいたので永留さんと、その誰かと話していたような・・・ 3年の時だったか、リムをカーボンにした。 少ししか使っていないで、古川にあげた気がする。 卒業後に、母から警察から「弓はどうしている」と連絡があったと言われたことがある。 後輩に譲ったと答えてとお願いした。 新人歓迎コンパも大変。 OPも参加するので、気が抜けない。 どれだけ自分が飲めるか、中村の寮で何人かで試したこともあった。 学生服での参加。 荒れたコンパだった。 トイレに行ったら、吐く者が続出。 中村が何度も吐いていたのを覚えている。 基本、コップに焼酎を注がれたら一気のみ。 失敗したら、さらに一杯。 多田が一番の酔いつぶれていた。 緒方が歌い出すし、福永は暴力を振るう。 多田が一番いつぶれていた。 よく救急車か来なかったな〜 先輩の大山さん(数年前までは年賀状が来ていた)は自分にアーチェリーを辞めるなよと、何度も言っていた。 恐い先輩・浜田さんからも、なぜか優しく、コップ半分ですんだ。 その時に言われたのが「バカをやって良いときはトコトンやる。だけど、いつまでもやっていない。けじめをつけろ」とアドバイスされたのは、おそらく守っている気がする。先輩の伊地知さん(高校のOBでもある)からは、親に迷惑をかけるなと言われた。 OBの川崎さんは、オレの名前は誰だよと言われていたけど、田渕さんとごっちゃになっていた。初対面だから無理もない・・・ コンパが終わったら、気がついたら、先輩の鴨川さんのアパートだった。 アーチェリー分のコンパは、全員、大きな声で自己紹介をしていた。 その練習もコンパ前にアーチェリーの練習場でやっていた。 一曲、歌の練習もやっていた。 先輩の伊地知さんの浜省の『東京』を聴いたときに、良い曲だとだ思った。 それから、東京に憧れたような・・・ コンパでの思い出は、だぶん、2年時だったか、、今考えると、凄いストレスを抱えていたようで、酔っぱらって、居酒屋の壁を殴って壊した事がある。 考えてみれば、無断欠勤とかで、幹部しての自覚がないとかで、浜田さんにとっくり3個呑まされて、潰れたからだと思う。 そして、翌日、浜田さんに殴られる。 居酒屋の弁償は、全体責任で、同期の皆のお金で払い、0Bにも迷惑をかけたというので、OB全員に手書きの手紙を書いて謝罪。 これも同期全員が協力して。 OBの偉い人・高槻さん、池田さん、橋口さんには家を訪問しての謝罪。 橋口さん時に、テーブルのコーラを前にシーンとなっているときに、蠅がコーラの口に止まり、多田が追っ払っていたのが、おかしく、笑いを堪えるのが苦しかった。 ただ、矢崎さんの時は、会えなかった。 次のコンパでと。 よく、多田と大学近くの食堂・矢車で、定食と味噌汁代わりに、ラーメンを注文していた。 最初に注文した時は、何人来るんですがと言われたけど・・・ 完食できていたので、それで味をしめて、大ラーメンを食べれれば1万円がもらえる企画に参加。 多田と一緒に行ったのだが、バケツに入ったラーメンで、しかも、汁まで飲んでくださいと言われたので、断念した記憶がある。 アーチェリー部には部室があった。 講義が休講になったり、少し早めに来たときは、部室に立ち寄った。 いつも誰かがいたので、話し込んでいた。 あまりにも話し込み、講義の時間を忘れた事も多数。 本坊酒造のバイトした時があり、一ヶ月1回だったか、バイトの度に、観光客が呑む試飲の焼酎のホドルを持ち帰られた。 それで、部室に行き、暇そうな人の誘い、その人の寮なりアパートなり、呑んでいた。 当時、ウイスキーとスプライトを混ぜると美味しいと思っていた。 スプライトは、マックでバイトしていた時によく持って帰っていた。 ヤクルトやリヤルゴールドもウィスキーと混ぜて呑んでいた。 コンパで焼酎は飲まされるので、当時は焼酎は嫌いになっていた。 トラヌマが消えるのに、10年ぐらい掛かった。 あるアーチェリーのコンパでは、どのOBかは忘れたが、鍋のフタで呑まされたことがあった。 鍋には穴が空いており、指を退けると焼酎がコボレてしまう。 一気に呑まないと、また呑まされる。 量的にコップ2〜3杯ぐらいはあったかと思う。 それ以来、焼酎はコンパ以外では呑まなくなった。 アーチェリーをやっていると、左親指の付け根にタコができる。 これをアーチェリータコと呼んでいた。 右手の中指あたりも弦を離すときに引っかかり、皮が禿げて痛かった。 さらに、左腕にも、弦が当たり、アームガードをしていたにも関わらず、何度も当たり、麻薬患者みたいに紫色に内出血していた。 アーチェリーは個人戦だけど、8人の合計で競う団体戦もある。自分が2年の時に、3年の方が最後なので、レギュラーなので選ばれるはずなのに、自分が調子が良いのでと、選ばれた時があった。 先輩の山中さんが補欠になった。 申し訳なく、すみませんと謝ったら山中さんは「謝る必要はない。その分、頑張れ」と言ってもらった。 団体戦の時に、自分の6本点数が50Mで50点、30Mで55点以上の時は、大きな声で自分の点数を発表するのです。 気持ちが良い。 そしたら皆が「(ナイスショットを略して)ショー」と言ってくれる。 かけ声は、その他に、「ファイトー、さー入れていけよ、サーシンチョー」とかあった。これは慎重に射っていけよの意味。 中々、福大には勝てなかったけど、一度だけ、まぐれで勝ったことがある。 2年の時には、レギュラーになりたがっていたような・・・ そして、3年の時は、国体を目指していた気がする。 1年の時の学園祭。 御輿を担いで、大学周辺の市中を走り回るイベントがあった。 その時、色々な人から、振る舞い酒を呑んでの御輿担ぎ、酔いも回って、パレードが終わったころに、意識がなくなり、倒れてしまった。 急性アル中で、救急車で運ばれる。 点滴3本打たれた。 その時に、遠征費を入れた財布と定期を失くしてしまった。 目が覚めると病院だった。 弟から聞いた話しでは、命が危ないのかもという事で、先輩達数人が、 自分の母親に報告に行ったようだ。 ちなみに翌年は、緒方が酔っぱらい、鴨川さんの車に乗り、緒方を 家まで運こんだ。 合宿もあったな〜 カレーを1年が作って、皆が食べたけど、何をしたのか、覚えていない。 しかも、肝試しがあり、多田とアーチェリーの練習場で後輩を待っているが、そこまで恐がらない思い出が・・・ 中年の星と言われるアテネオレンピック銅メダルの山本博、学生時代、ウイリアムテルみたいに、リンゴを的にして射抜いたていた。 学生時代も輝いていた山本博、オンピックで脚光を浴びているので、不思議な感じて活躍を見ていた。 アーチェリーしていると、集中力がついてくる。 この集中力、社会人になっても、けっこう役にたっているように思える。 それで、勤続年数30年続いていた思ったり・・・ 先輩の鴨川さんと、自分、福永とで指宿のキクヤ旅館で畳みを譲ってくれるようなので、取りに行ったとこがある。 一人20枚ぐらいは運んだ。 部の経費削減になったのではと思った。 3年になると、アーチェリー部の幹部になる。 自分は遠征の時にホテル選択したりする渉外。 久留が主将、福永か副主将、緒方は会計だった。 自分たちが幹部になったら、規律は緩くしようと話し合った気がする。 親しみを持って接していたので、それで今回、下の後輩から、同窓会に参加しませんかと提案があったようだ。 練習場に柴犬・ジョンという犬がよくくるようになった。 皆に懐いていた。 いつしか、誰が書いたが分からないけど、ジョンと名前を胴体にマジックで書いてあった。 その事を当時の情報誌だったか、新聞だったかに、記事が載っていて、アーチェリー部の誰かが・・・という話になったが、犯人は全然知らない人だと思う。 2年の福岡遠征の時に、そのまま鹿児島帰らずに、中学校時代の女友達のアパートに行くことにした。 数ヶ月前に、その子は、ラジオで投稿していた。 それを自分が偶然、聴いていた。 交差点ですれ違ったけど、無視されたと。 思い当たる所は何カ所もあり、すれ違った場所、自分は自転車でその子は歩き、ペンネームも下の前だったので、別人のはずがない。 そして、リクエスト曲は村下孝蔵の『初恋』。 それで会いたくなり、突然、押し掛けたら、そのマンションには、中学校時代に仲の良かった人もいて、凄い話しか盛り上がった。 そういえば、福永とマックドナルトのバイトを一緒に初めていたんだった。 福永はすぐに辞めたけど、自分は、夜のメンテで働くようになった(時給がよいので)。 二年半で辞めたけど・・・ 練習の時に、ランナーで言えば、ランナーズハイになっている状態になった事がある。 矢をつがえる時から的の中心に当たると分かる。自然に構えて、ピタッと狙いは定まり、矢を放つと一直線に矢は中心に向かう。 完璧な感じだったけど、次の矢はそういう感覚にはならずに、外れた。 福永、多田で、パチンコにもよく行っていた。 新装開店の情報をキャッチして、朝から並んで、勝つことが多かったけど、新装開店なのに、負ける事も多かった。 バイトに行く時に、少し時間があり、パチンコをしたら、バイト代よりも稼いでいたので、これなら、バイトに行かず、もっと稼ごうと、バイトを仮病で休んだ事があった。 バイトの連チャンや飲み会、学園祭とかで、2日連続徹夜で、寝れなかった事がある。 灰色の包帯の亡霊の幻覚を見たと学生時代のノートに記載してあった。 考えてみれば、24時間走の時に、寝たまま走れていたのは、この経験があったからだろうか・・・ そのノートに、自分は覚えていないけど、後輩の女子の山口さんが新人戦ら3位になった事を凄い喜んでいた。 大学時代にやったバイトは、マクドナルド、カシオオープンゴルフ、駐車場の整備、ダイエー、青果売場、サンタクロース、ギブト、タイル張り、冷凍庫での棚卸し、サンリオのキティーちゃん、マージャン屋、警備員、選挙事務所、オモチャ売場、自転車屋(ペダルを付けるのはプロ並みだった)、酒屋、本坊酒造・・・ まかない目当てで寿司屋の面接を受けたが、不合格。髪の毛はボサボサ、破れたジーパンを履いており、面接でも「まかない食は、やっぱり寿司ですか?」と確認していたから、それ目当てだとバレバレ。 おそらく、福永も面接に付き合ってもらった気がするから、自分だけではなく、福永まで食べさせるつもりだと思われたよう。 バイトは、人のコネや大学の学生課から見つけてのをやっていた。 学食で好きだったのは、ミックスランチ、スパサラ。 白川が辞めてからも、白川の同級生の女の子とよく会っていた。 よく、白川から、夜に呼び出されて呑んでいた。 寺田さん、松下さん、西さんだったか・・・ ある日のアーチェリーの大会で、その女の子達が応援に来て、キャーキャーと騒いでいたので、浜田さんに睨まれて、翌日、注意を受けた。 自分は、寺田さんとよく喋るので、白川に、自分が寺田さんに好意を持っていると、勘違いされていた。 緒方の提案だったか、ユニフォームやスタジャンを作った記憶がある。 よく試合で着ていた。 今でも、実家に置いてある。 一時期、山口、鹿島、中野の女3人で帰ることが多くなった。 何の話しをしていたのか、全く、覚えていない。 多田の夢で、山口と自分が結婚して、多田と3人で住むらしい。 今、思うと、正夢にならなかった。 アーチェリーを長くやっていると、アーチェリーに適した肩になる。右肩が少し前に出てしまう。 その肩で、ボールを投げると、すぐに肩は壊れるようだ。 アーチェリー部に部日誌があった。 好きな事を書いて良いというので、自分一人で12ページを書いたら、多田も続く。 けっこう、部日誌か盛り上がった。 その部日誌、多田が黙って勝手に卒業の時に、持って帰ったようだ。 大学の駅のホームで、電車を待っていると、高1の女の子が自分の所に来て、ジュースを買いたいから1000札を崩してくれと言われた。 それが縁で、駅のホームで20分くらい話した。 高校生も、色んな悩みを抱えているな〜と感じた。 大学近くのうどん屋でバイトしているよう。 数日後、多田とうどん屋に行ってみて、よく、うどん屋に行くようになった。 福永、久留、緒方、田中とも、うどん屋に行ったような・・・ 数え切れないぐらい、うどん屋に行き、バトミントンのバイトの人や、店長までも親しくなったような・・・ アーチェリーで練習や試合で自己ベストを出すと、皆から祝福の胴上げをされる。 ただ、先輩は最後に投げる感じになり、暗黙の了解で、後輩は最後まで胴上げされている人を支えるみたいになっている。 けっこう、先輩後輩には上下関係があった。 後輩が先輩とすれ違うと、必ず「ちゅあーす」と挨拶と挨拶しなければならない。 だいたいが、先輩は後輩に奢ったりもしたような・・・ 時々、OBが練習場に遊びに来た時は、アイスクリームを奢る風習もあった。 だから、コンパでも、上の人の命令は間違えた指示を出しても絶対服従になっていた。 自分の高校時代の親友の松久保が、アーチェリーで出した記録が南日本新聞に載ったのを見つけて、年賀状でおめでとうと書かれた事がある。 小さな記事だったので、よく見つけたな〜と思い、ビックリしたことがあった。 思い出深い大会で言えば、福岡・平和台球場でやった3年のオールラウント(90M、70M、50M、30M)の試合。 最初は個人戦で希望者だけだったので、自分は出ないつもりだった。 オールラウントの試合の為、参加する人達は頑張って普段練習をしない90M、70Mを休日、休み時間を利用して練習しはじめる。 自分は皆、頑張っているな〜と思いながら、皆の練習を見守っていた。 そのうち、団体戦に参加することになり、自分も誘われる。 3年なので、引退前に最後に大きな大会に出ようと言われると、参加しなきゃと思ってしまう。 たった1日だったけど、練習したと思う。 結果、9人で団体戦参加して、9人の中でトップ、全体では150人中30番以内には入っていたと思う。 前日とかは、皆で博多でボーリングをしたような・・・ 凄い楽しかった記憶がある。 遠征には費用が掛かるので、OBの家まで行き、援助金を集めていた気がする。 誰だったか、忘れたが、警察官になったOBに、冗談で現行犯だと言われ、手錠をかけられた事がある。 しばらくその状態でいたのだが、そろそろ、手錠をはずしてやろうとOBが言って、手錠を外そうとするのだが「鍵がない」と・・・ 鍵を探している。 「悪いけど、ずっとそのままだな」と。 鍵を失したのは、冗談だったけど、自分も焦った。 手錠を掛けられた気持ちは、手首の金属の重みで、反省させられるという感じ。 犯罪者の気持ちが分かったような・・・ アーチェリーの弦は買うことも出きるが、作る事もできた。 お金がないので、作ることが多く、先輩の鴨川さんに作ってもらう事が多かった。 自分も作っていたけど、人に作ってもらう方が調子が良かった気がする。 でも、今は完全に、作り方を忘れてしまった。 練習で雨の日にやるバレーボールがうまくなろうと、ママさんバレーを やろうとチームに入ったら、そのママさんバレーチームは東洋の魔女みたいなレベルで、本格的。 一回で辞めてしまった。 他にも、なぜか社交ダンスも入っていたような・・・ これは、5回ぐらいで辞めた。 アーチェリーにも、弓道と同じく継ぎ矢がある。 すでに的に射った矢に、新しく射った矢が刺さること。 めったに起こることではない。 自分の考えでは、確率的には、ゴルフのホールインワンぐらいだろうか・・・ 正直、継ぎ矢は、2本、矢を壊してしまう、ありがたくない偶然。 10点の部分での継ぎ矢は自慢できるが、1点だと、恥ずかしい。 8点だと微妙・・・ 仲間の継ぎ矢は、アーチェリーを練習していた3年間で2〜3回見たことがある。 自分もあった記憶にある。 大学4年の時は、オンボロタクト(原付)通っていた。 雨の日もカッパ着て、冬の寒い日は着込んで通った。 そういえば、大学を卒業出きるか不安だったので、発表前にゼミの教授に電話したら「卒業できるよ、おめでとう」と。 再試験も覚悟していたのに・・・ 卒業が決まって、ホッとしたのか、オンボロタクトは壊れてしまった。 嘘みたいな話し・・・ 東京には持って行かれないので、良い時期に壊れてくれた。 「タクトよ、安らかに眠れ・・・」 就職は東京の民間の企業。 アーチェリーの仲間を中心に学生時代を書いてみた。 前回、消してしまったより、長くなってしまった。 8月3日、多田からメッセンジャーで連絡が来る。一つ下の後輩達が同期会をするから、先輩方もどうですか?と。それで、集まることに。久留も来ることに。すぐに久留から電話が掛かってくる。久留、介護の仕事をしているとか。10日の請求もしているよう。 9月20日に久留から酒瀬川のLINEが送ってくる。 『こんばんは! お店ですが、「吾愛人中央駅西口店」で予約ができました。今のところ、酒瀬川、平山、矢野、安永、山口、村木、竹之下、村永、中野、鹿島、の10名と久留さんの代5名で15名です。石田の返事がまだですが、16名の17:30からで予約入れています。食事は飲み放題、税込6,000円したいと思います。10月に入って人数と一緒にお店に連絡入れたいと思います。皆さんにお伝え下さい。よろしくお願いします。吾愛人 中央駅西口店 鹿児島県鹿児島市西田2-21-21 https://www.hotpepper.jp/strJ003763484/』 今日の朝、久留から「中澤さんが宮崎の百年の孤独というのを持つて来ると言うたけど、知っている」とLINEが来たけど・・・ 百年の孤独よりも、中澤さんが分からない。 先生とかは違う名前だったし、他に誰か来るのか・・・ 全く、誰だか分からない。 久留に聞いてみると、田中さんの今の名前らしい。 田中さん、結婚していたとは・・・ そうだよな〜、40年という月日は色々な状況が変わる。 自分的に、大学卒業して、一ヶ月ぐらいしての同窓会な感じがしていた。 とにかく、夕方は40年ぶりの同窓会。 また、誰が誰か分からなくなるのが、楽しみになってきた。 正直、同窓会に出席するのが、初めてに近い。 大学を卒業して数年後に、大学か高校の全体の同窓会に出席したことがあるが、全体なので、さすがに知っている人はいなかった。 今回はアーチェリー部という4年間いつも一緒のメンバー。 正直、あまり、昔のメンバーに会うのは苦手。 若かかりき頃の自分を知っているのが(今より確実に幼い考えを持っていたはず)、どうも思い起こさせる。 それが、還暦になり、昔を懐かしむのも良いかな〜という考えに変わった。 それだけ、年を取ったということかな・・・ 今回の鹿児島入り、3日ぐらい前までは、行きも帰りも台風の影響を受けるところだった。 幸い、数日前の札幌のように、台風が太平洋側にそれたので、あまり影響がない。 今回の同窓会は、絶対、行きたい。 次ぎがあるかどうかが、分からないから。 数日前までは、おそらく、飛行機は飛ぶだろうから、福岡まで行き、そこから新幹線のルートで鹿児島入りをするつもりでいた。 でも、台風がそれたので、大丈夫になった。 6:09の京急に乗る。 やっぱり、ビールは飲んでおかなければ… 羽田空港:スカイマーク301便(6:35〜8:25)→鹿児島空港 やっぱり、荷物検査場でシューズが引っかかった。 鹿児島空港から市内にリムジンバスで行く。 鹿児島は、凄い天気が良い。 市内に着くと、ブラブラ。 日なたは、凄い暑い。 弟にLINEして、今日泊まるホテルのレクストンに待ち合わせる。 10:30に合流。 弟の奥さんのおばあちゃんの墓参り(武岡団地)して、両親の納骨堂に。 焼酎をお供えした。 松元まで行き、焼肉の白川に。 弟は記憶なかったが、自分は行ったことがあった。 Aランチ(上ロース、上カルビ)を食べる。 ライス・お味噌汁・ミニサラダ・香の物・ソフトドリンク。 自分だけビール。 弟は、運転手なので… お肉が柔らかく、おいしい。 弟は来年の3月で退職するようだ。仕事が新しい部署でキツいらしい。この年で新しい部署では覚えられない。 ・ダイジは住所を川辺に移したよう。暇だから、釣りにハマったが、まだ一匹も釣れていないよう ・タケシの年収が2000万と聞いて、ビックリ ・実家が家が完成して、初めての皆での食事はエビフライ。リビングで食べていたけど、親父が落ち着かないと居間で食べることになった。 ・弟が、自分にチャーハンの作り方を教えていたらしい。自分は覚えていない。聞いていないな〜と思いながら教えていたらしい。 ・弟の夢に、親父が出てきたらしい。その後に、自分が帰ってきた。弟は、墓参りをしていなかったので、今日、墓参りが出来て良かったと言っていた。たぶん、台風がそれていったのは、親父のお陰かな〜と思ってしまう。 ・弟に、自分が退職したら、弟の運転手で、九州一周の旅をしようと約束する。 ・健介が結婚しそう。弟は彼女の母親にも会っている。ただ、健介は結婚資金ないみたい。 弟は、この後は、仕事に行くよう。 だいぶブラックのよう。 レクストンまで送ってもらう。 チェックイン14:00の時間まで、ロビーでゲームしていた。 今回、屋台村の木札を忘れたので、無料で焼酎が飲めないので、屋台村に行く気がしない。 早めにチェックインが出来ると知り、着替えて、与次郎に桜島の写真を撮りに行く。 関東は、やっと走りやすくなってきたというのに、まさかの30度越えの中を走るとは・・・ ゆっくりと走った。 桜島を撮って、帰ってくる。 けつこう暑い。気温は33度。 帰りに、ホテルの場所を間違えて、ウロウロした。 ホテルで1時間ぐらい寝た。 テレビでジャイアンツとベイスターズのクライマックスシリーズを見ていたら、ホテルかせ出られなくなった。 17時過ぎにホテル出て、歩いていく。 なんと、自分が思っていた吾愛人 中央駅西口店に行ってみると、 そこは、東口店だった。 慌てて、西口店をスマホで検索すると、鹿児島中央駅の裏側にあった。 そういえば、思い当たる。 そこだ・・・ 西口店に行き、店員に部屋まで案内される。 部屋に入ると、知らない人ばかり・・・ 間違えたのか・・・ でも、自分を知っていそうな・・・ 自分の名前を呼ぶ声も・・・ 一瞬、部屋を出ようかとしたりして、ウケを狙う。 自分の席は、同期と一緒の席だった。 前に中村、その隣に久留、自分の隣には田中さん。 多田は欠席(家業の畳屋が忙しく休めなかった)・・・ 久留の計らいで、3年ぐらい前に亡くなった福永の追悼で、黙祷からの献杯・・・ 自分は福永から、タバスコ入りの何を食べさせられた事を思い出した。 最初に、一人一人、後輩の大学を卒業してからの経歴と今を話してもらう。 思い出す限り、書いてみる(田中さんがメモしていたので、自分も聞きながらメモしていたのもある)。 ・鹿島、結婚して今は大川さん。キャラは同じ。県外に住んでいる。 ・中野、猪俣と結婚していた。 ・山口、公務員。ハラスメントの権化みたいなお父さんがいて、何か久留と仕事をした事がある関係。久留、メチクチャ、怒られていたようだ。 ・村木、バツ1 ・矢野、今は叶山(かのやま)。山口県にいる。子供は3人。みんな関東にいる。 ・村永、保険の仕事をしている。 ・竹之下、アーチェリー部に入ったのは久留、林に勧誘された。自分と一緒に留年していた。25歳で結婚して、離婚して今は独身。 ・安永、長崎県にいる。自動車学校で教えている。 ・酒瀬川、宮崎で研修があった時に、声で田中さんに気づいて話しかけた。今もアーチェリー協会に所属してインドアの種目にでている。 ・平山、徳州会に勤めていたけど、神戸単身赴任したり、大阪に住んだりしていた。関西弁が出ていた。長男が20歳になった時に離婚。養育費3万がウケた。今は葬儀屋。種子島に住所を移した。色々と経験していた。 ・田中さん、今は中澤。1年、アーチェリーの事務局で働いていた。児童養護の仕事をしている。子供は東京にいて、ボーイズバーで働いている。人間断捨離をしているよう。今日、来れたのは久留が探してくれたから。 ・中村、30前に結婚。孫がいる。息子が米の農業をしている。中村は鹿児島空港の駐車場で働いている。白川とは、車つながりで付き合いがあった。 ・久留、オアシスケアで働いている。子供2人。本当に皆とは会うことはないと思っていた。福永が会えるように導いてくれたような気がする。 女子7人は全員、結婚していた。 しかも、バツ1、バツ2も・・・ 後輩・酒瀬川が還暦になり、皆で会いたいと年賀状で辛うじて繋がっている人を誘い、そこから色々と調べてけつこう集まったので、先輩たちの同期もどうですかと誘われ、久留も色々と調べてくれた。 料理は、きびなごの刺身、地鶏の刺身、さつまあげ、きびなごの天ぷら、おでん、さつま汁、ごはん、パイナップルのデザート 田中さんが、百年の孤独を持ってきていた。 宮崎の貴重な焼酎で、並んで買ったとか・・・ 自分も飲ませてもらった。 匂いはウイスキー、味は麦焼酎ぽくない、けっこう美味しかった。 高級ウイスキーみたいな・・・ 自分が、横浜のお土産、横浜ハーバー詰め合わせを出そうとしていたら、矢野の便乗して、山口県のお土産「こまこま」を出した。 インカレの話があった。 あの福大に勝ったと思ったインカレ、実は負けていた。 当時の福大は、地区予選で敗れる高校とプロ野球のチームぐらいのレベルの差があった。 それでも、どんどん勝ち進み、決勝で福大と当たる。 実力の差があったので、開き直って、今日は楽しもうと話し合った。 自分らの点数が良いと「○○的、58点」と発表し、皆が「ショウ」とか「チョイ、チョイ」と大声で応える。 チーム一段となって福大を大声で圧倒する。 次第に、福大の声が小さくなっていくのが、分かった。 そして、試合では負けたが、自分たちのチームの結束では勝った。 あとで、福大の選手が先輩たちに激を飛ばされ、会場を走らされていた。 竹之下、村永から聞いた話。 自分がスクエアのコンサートに行く予定だったけど、彼女が行けなくなり、そのチケットを竹之下、村永に渡したようだ。 最前列で、初めて竹之下がコンサートに行ったので、けっこう感動したとか。 当時、スクエアは人気があり、彼女が大ファンだったので、コンサートチケットをゲットするのに、ありとあらゆる人脈とコネを使いチケットをゲットした記憶がある。 それをあっさりと、彼女が行けないからと、後輩に譲るとは・・・ でも、その彼女、誰だか思い出せない。 バイトで知り合ったような・・・ コンパでは、先輩から注がされた酒は、基本、一気飲みだった。 こうして、食べ物と一緒に皆で、ゆっくり飲む日か来ようとは、夢にも思わなかった。 昨日も、後輩たちは飲んでいたよう。 古川もその席には出席していた。 後輩の卒業アルバルに自分が写り込んでいる謎の話しをしていたと。 たぶん、同じ卒業という事(留年していた)で一緒に撮ったのだろうと言ったが・・・ 多田も写っていた。 後から、久留が多田に電話をしていた。 電話を回し、よく後輩の女子と喋っていた。 矢野に自動車学校に通った話ししたが、覚えていなかった。 色々な写真を皆、持ってきていた。懐かしすぎる。 鴨川さんも今、見ると、若い・・・ 久留が大学の校歌を披露するが、自分はコンパの終わりに、皆で肩を組んで皆と合わせて歌っていた事しか覚えていない。 後半になるにしたがって、昔の顔が今の面影になっているのに気づく。 また、会いたい。 それが、明日への頑張りに繋がる気がした。 なかなか会えないけど、仲間はいつまでも仲間なんだな〜という気がする。 最後、記念撮影になる。 自分がこの日のために、スマホを買ったと言ったら、自分のスマホで撮ることになった。 二次会は近くにあった目利きの銀地。 同期4人で飲んだ。 色々、思い出話しをしたような〜 ・田中さんが部を辞めようと、休んでいたら、先輩の浜田さん、鴨川さんが田中さんが受ける講義が終わるまで、待ち伏せしていたよう。説得させられ、辞めないですんだ。 ・多田が来れなかったので、今度は宮崎で同窓会をしようと、久留が提案していた。 田中さんか泊まっているホテルが、何と自分と同じレクストンだった。 やっぱり、縁はあるんだ・・・ 久留が名残惜しいのか、一緒に送ってもらった。 10月13日(月) 朝、4:00に起床。 与次郎往復。9.6kmくらい走る。 桜島を撮りに行った。 与次郎から見る桜島が一番良い。 今日は、最近では綺麗に見えた。 7:10の空港行きリムジンに乗って空港に。 スマホゲームしていると、どうも変な感じに。 バスが動いていないのに気づく。 調べてみると、姶良あたりで、事故渋滞。 鹿児島の高速では、凄い珍しい。 バスが進まなくなった。 車が横転して道を塞いでいるという情報もあった。 8:40ぐらいに動き出す。 やっと、空港に着いたも、飛行機に間に合わなくなった。 鹿児島空港:SKY304(9:15〜11:00)→羽田空港に乗るはずだったのに・・・ けっこう焦る。 とりあえず、遅延証明書をもらう。 天文館7:10発の鹿児島空港8:05着のバスは交通渋滞のため、1時間10分遅れで、空港に到着。 4人待ちで、スカイマークの手続きに。 20:10の振り替えになった。 まだまだ、鹿児島でゆっくりしろとい事か・・・ 山形屋食堂で、モーニング。 妙見温泉まで走って、ゆっくりしようかな〜 更衣室で、着替えて、荷物をロッカー(400円)に預ける。 10:37スタート。 スタート時の気温が27℃、今日は32℃まで気温が上がるので、日陰を 選んで、ゆっくり走ろう。 会社に履いていく、シューズしかないので、それで走る。 トモタケさんが゛数日前に来ていた喜例川駅に。 お弁当が有名なので、ちょうど来ていたの買うことに。 百年の旅物語、かれい川は、九州駅弁グランプリ受賞、三連覇している有名な弁当。 残り7つあったので、買えるな〜と思ったら現金しか取り扱いはないみたい。 ラン中は現金を持たない。 PayPayならあったが、それではダメだった。 諦めて、走ることに・・・ 温泉地に向かおうとすると、通行止めになっていた。 グーグルは、なぜが遠回りのコースになっていたのは、そのせいだった。この通行止めを無視したら、あと数キロ。 無視することにした。 日の出温泉 きのこ里に。 入浴料が300円 ただみたいな金額に思える。タオル200円 ロッカーは10円。 入ってみると、良い温質だと分かる感じ。 気持ちよく入れた。 1時間ぐらい、のんびり浸かっていた。 露天は水風呂だった。 汗で濡れたTシャツを着る。 本当は、妙見温泉に行きたかったが、次回にしよう。 川は癒される。 まだまだ、走れそう。 史跡洞窟とあったので、行ってみる。 熊襲の穴とある。 熊の親子が大量にいるとか・・・ 最近は熊の出没で騒がれている。 調べてみると、熊がいるわけではない。 クマソと呼ばれる人が住んでいたから、そう呼ばれるようになったらしい。 自分は熊がいるかと思って、恐る恐る登ってしまった。 ガサガサと草が揺れるとビックリしてしまう。 階段がキツイ… 木のベンチもあったが、古びて壊れていた。 上まで登ろうとしたら、大木が倒れて、道を塞いでいた。 行けないのか・・・ 戻ることにした。 自分が降りたところに、カップルが登ろうとしていた。 状況を説明したが、それでも、行けるところまで、行くようだ。 調べてみると、2025年の8月の大雨の影響で、当面の間、利用できないと。 空港に戻ることに。 残り5kmぐらいなると、登り登り登りに・・・ しかも暑くなってきた。 ちょっとフラフラしているかもと、あと5kmぐらいなので、歩くことにした。 永遠に続く登り坂に参ってしまう。 途中、吹上庵のそば屋があったが、早く空港に着きたかったので、食べずに歩く。 15:30前に、やっと、空港に到着。 走った距離は、17km。朝ランを入れると、今日は27km走っていた。 ロッカーからリュックを取り出し、更衣室で身体を吹いて、着替えた。 とにかく、炭水化物だと思い、満正苑に。 チャーハンを食べて、フライドポテト。 やっと落ち着いてきた。 展望デッキで、しばらく飛行機の離発着を見ていた。 こんな、ゆったりした時間も必要。 そういえば、数日前に、一日、新千歳にいて、今日は鹿児島空港に一日いる。 空港一日シリーズも良いのかも。 お土産を買う。 ROYALRにて ・黒豚みそ ・真空さつまあげ ・シュガーバターの木 Sweet Potato スカイマーク側のソファーでゆっくりした。 鹿児島空港:SKY308(20:10〜21:55)→羽田空港
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