若 者 の 精 神 崩 壊 論
個性とは奇抜な格好をする事ではない。
若者の茶髪、ガングロ、汚れファッション、ルーズソックス等、他人に迷惑をかけない限り、何をしても自由ではないかとの言い分は、世間では通用しない。
迷惑とは、若者の価値観による迷惑であって、世間では充分に迷惑になっている。
つまり、不愉快きまわる格好が不快感を与えているのだ。
なぜ、世間、立派な大人が不快感を感じるか、検討してゆくと、何点か思い浮かぶ。
- 自分ら、若い頃にそういう格好が出来なかったので、今の若者がそういう格好をしている現状に嫉妬している
- 乱れたような格好が、すぐに不良につながり、日本の将来を背負う若者に、いくばくの不安感がある為
- 大人がそういう若者の格好を注意出来ない為に、大人のジレンマが不快感を与えている
結局、意味のない不快感を説明できないが、若者が短絡的に流行を追いかけて、本来の自分を見失って、浮浪者より浮浪者らしい髪型をしたり、土人顔で民族武装して、街に繰り出していくのは嘆かわしい。
本来、個性とは自分自身を知らないと個性を発揮出来ない。
自分を理解してこそ、個性が出せるのだ。
自分自身を知るためには、色々な本を読み、色々な人から話しを聞き、色々な視野から勉強し、本来の自分を発見するものだ。
そういう時期は若い時の方が、感性が新鮮で斬新なので、有効的なのだ。
が、もうすでに人生に疲れ果てた老婆のように、道端に座り込む。
若者のプライドを捨てて、やる気のない無気力、粘りがない、おまけに自己中心的。
今の若者が我がまま放題に育てられた結果で、こうなったのである。
教育とは、教え育てないといけないものだ。
教える事ができても、育てる事ができない。
大人が大人になるための教育されていないから、子供にもそれを伝える事ができないのだ。
ヤンママの悲劇はそこにある。
子供の作り方は知っているが、それを育てる事ができない。
しまいには虐待へと続く。
世も末か。
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