禁殺人論 (なぜ、人を殺したらいけないのか?)


 少年凶悪犯罪が相次ぐ中、思いださなければならないのが、神戸の事件後だったか、高校生のテレビ討論の問いかけ『なぜ、人を殺したらいけないのか』に対して、誰一人、大人は答えられない場面があった。
 それから、少年犯罪が頻発した。
 この誰も答えられなかった大人達の失態・馬鹿ぶりにも、少年達になめられた影響もないとは言い切れない。
 では、そういう質問に対して、どう答えれば良かったか。
 正論の「もし、逆に逆に自分が殺されたら、どうしますか」という風に論理をもっていくのは間違いだ。他人の事はともかく、自分が死んだらというのは、論理を曲げていると思う。もし、自分が殺されても良いので、人を殺したいと考える人がいたら、殺人者を助長しているような気もする。
 つまり、自分が死んでもいいなら、相手も殺しても良いと。
 では、どのように答えれば良かったか。
 答えは『人間だから絶対に人を殺したらいけないのだ』と、言いさえすれば良かったのだ。
 人間は知能を持っている。
 それは、他の動物と違う所。
 その知能で、人間は人を殺す事も出来る。
 人を殺傷できるナイフを振り回すだけで良いのだ。
 それで、人を殺せるのだ。
 そもそも人間は道具を使うことで、その人間が持っている力以上の実力を発揮できるのだ。
 しかも、人間一人の力では微力だけど、その人間の多くが、一斉に勝手に振る舞いをすれば、人類おろか、地球自体も壊す可能性があるのだ。
 人間だからと言って、地球を壊して良いはずはない。
 人間は地球を支配しているからこそ、地球を守らないといけないのだ。
 人間文明の発達により、核廃棄物処理の問題、ダイオキシン、フロンによるオゾン破壊などと、人類自体の存続の危機にもさらされている。
 便利になったかわりに、崩壊の要因があるというのも、おかしな話しだが、人間はこの地球を守らなければいけない使命があるのだ。
 これは、猿や犬、猫、イルカに出来る話しではない。
 人間だから出来る話しなのだ。
『人間の命は地球より重い』という言葉があるが、一つ一つの人間の力によって、社会が発展し、人間社会が栄えてゆく。
 その上で必要なのが、ルールなのだ。
 最低限、守らないといけないルール。
 勿論、それは、神様が決めたものではない。
 人間がそうした方が良いと決めたわけだ。
 法律・常識・規則だってそうだ。
 しかし、それは、神様が作ったわけでないので、その決めたものを破っても、破った時点で自爆装置が作動するわけではない。
 赤信号を無視して車を走らせても、車はそれ自体では壊れない。
 横から他の車が突っ込んできて、初めて車が壊れるのだ。
 赤信号を無視して壊れなかったものが、ルールを無視したした結果、壊れてしまう。
 そもそも、そういうルールはお互いの人間が生活しやすいようにと、決められている。
 そのルールが無かったら、自由に何でもし放題で、それこそ、生活が出来なくなってしまう。
 車がいつ、家の中に突っ込んでくるか、わからないからね。
 人間は集団生活をしている。
 それだから、今日がある。
 それを勝手に人を殺しまくっていたら、その集団生活の秩序を乱して、せっかく知能を持った人間生活を送れなくなってしまう。
 人は、絶対に、一人では生きてゆけない。
 自給自足をしている人だって、何かしらの人の作った物の恩恵を受けている。
 肉を食べたいからと、牛を追いかけて、殺して、調理出来る人、全部が全部、一人で出来る人がいるだろうか。
 人は人から支えられて生きている。
 だから、人を殺したら駄目なんだよ。
 まだ、少年だから、人を意識的に支える実感がないから、人の命を大切さが本当の意味では、わからないと思うが。
 結局『なぜ、人を殺したらいけないのか』って、質問は疑問ではなく、屁理屈なんだよね。
 自分を正当化しょうとして、そういう疑問を投げかけるけど、当たり前の答えしかないのに、大人が変に考えてかっこよく答えようとするから、答えられなかったと思う。
 今どきの少年は、頭の中では論理的に考えられる。
 色々な情報から分析・整理出来るはずなのだが、それを自分について考える事が出来ないのではないか。
 もっと言えば、今どきの少年は自分では何にも出来ない癖(何もかもおやや社会が与えてくれるから)に、屁理屈だけはうまいのだ。
 自分について考える事が出来ないから、すぐにイライラし『キレる』『ムカつく』という爆発的感情に押し流されてしまう。
 本来は、論理的に物事を考えていれば、自分についても考えられるはずだが、親から自分の事を大事にされていなかったり、事務的な教育により、自分という人間が希薄になり、他人までも希薄になる。
 そこで、簡単に人を傷つけたりする。
 自分の感情をコントロールできないから、他人の気持ち・心などわかる筈がない。
 現在、机の前に座っていても、本、新聞、インターネット等で、色々な情報を得る事が出来る。しかし、実際に体験しなければ、その情報を自分の物にする事は出来ない。
 例えば、水。
 水素と酸素が化合して出来きる無臭・無色の液体というのは、知っているけど、実際に見て、触れて、飲んでみないと、それが水だとわからない。
 手を水で濡らしてみないと、人に聞いたり本を読んでも、水の冷たさはわからないのだ。
 コミュニケーションも、体験してみないと、そのコツを体得出来ないと思う。
 恋愛にしても、何度も何度も失恋を繰り返して、自分を理解し、真の愛を見つけられると思う。

とにかく、人は人なしでは生きてはゆけない。
 それを証明するには、例えば、お金だが、お金は人間社会での一つのコイン・紙幣にに価値を決めて、その交換によって、その欲しい物を手に入れる事が出来る。
 もし、一人で生きようとすれば、お金は相手との相互理解によって通用する物なので、お金は使えない。
 お金、水道から出る水、電気、ガス、衣類等、何から何まで一人で作らないといけない。
 話し相手もいなければ、愚痴を聞く人すらいない。
 そういう生活に耐えられる事が出来ますか。
 人間生活というのは、知らない所で、人の努力の成果(衣類・製品等)があるのです。
 だから、相手の命を尊重しないといけないのです。



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