坂本龍馬のゆかりの人々


名前ゆかり
池内蔵太1841〜66土佐藩士池才右衛門の子。坂本龍馬とは幼なじみだったという。土佐勤皇党の結成に加盟し、佐幕思想を貫く藩政に反対して脱藩。長州に身を寄せた。下関での外国船砲撃事件の際には遊撃隊参謀として参戦。その後も積極的に活動を続け、大和の天誅組挙兵時には洋銃隊隊長として、禁門の変では長州藩の忠勇隊に所属して戦った。
土佐勤王党が弾圧され、武市半平太が切腹した後は、龍馬を頼って亀山社中に参加。武器の購入や物資の輸送などを手がけるかたわら、薩長同盟の締結にも尽力した。
ところが、慶応二年(1866)、思いがけない形で彼の死が訪れる。士官として乗り込んだ薩摩のワイルウェフ号が五島列島の沖合いで台風に遭遇し、沈没してしまう。彼は船と運命を共にし、溺死した。この報を聞いた龍馬は深く悲しんで落胆すると同時に、自ら五島に赴き、彼のために墓を建立してくれるよう、現地の人間に頼んだという。
岩崎弥太郎1834〜85明治期の実業家で、三菱財閥の創始者。土佐藩の地下浪人といわれる苗字帯刀は許されるが家禄のない半農の家に生まれる。学問での立身を志して勉学に励み、土佐藩参政の吉田東洋の元で学ぶようになり、1859年(安政6)東洋の推挙で藩に職をえて長崎に赴任。やがて藩の開成館長崎出張所の主任となり、長崎貿易で活躍した。その功により、61年(文久元)に下士層である郷士、67年(慶応3)に上士身分の新留守居組に出世した。長崎の土佐商会を委任され、海援隊の誕生とともに会計を担当、龍馬たちと直接の関係が生じる。1867(慶応3年)3月10日、亀山社中が土佐藩公認の海援隊になる前である。以後、海援隊の面倒はみるが、その関係はあまり良くなかったらしい。
明治新政府になってからは、しばらく藩の大阪での交易事務に携わっていたが、廃藩置県に前後して藩船の払い下げを利用し海運業に乗り出した。1874年(明治7)の佐賀の乱・台湾出兵から77年の西南戦争にいたる政府の輸送業務を独占して、国内最大の汽船会社に成長した。この間に多大な資本を蓄積し、しだいに他分野の事業にも進出して三菱財閥の基礎を築いた。やがて海運独占に世論の非難が強まり、政府が援助する共同運輸会社との激しい競争が続くが、そのさなか死去した。
上野彦馬1838〜1904日本における写真の先駆者。父・上野俊之丞は、江戸時代末にオランダ船が長崎に伝えたダゲレオタイプ(銀板写真)を手がけ、薩摩藩主・島津斉彬を被写体として日本で初めて写真撮影を行なったとされる。
彦馬は長崎に生まれてオランダ語と化学を学び、化学の解説書「舎密局必携」を出版。その後関心は写真術に向かい、オランダの海軍医ポンペの指導で写真機や写真薬品を製造し、1862年(文久2)長崎に日本最初の営業写真館を開いた。同年横浜では下岡蓮杖が写真館を開いている。
彦馬は湿板写真で外国船の乗組員や坂本龍馬、高杉晋作など幕末の志士の肖像写真を数多く撮影した他、1877年(明治10)の西南戦争に写真装置を積んだ荷車で従軍し、田原坂などの戦跡を撮影した。その後は乾板写真に転じ、ウラジオストク、上海、香港にも写真館の支店を開いた。
大浦お慶1828〜841828年、町人で中国人貿易商だった油屋・太平次の一人娘として生まれた。16歳の時に大火で店が焼け、すでに父が亡くなっていたため、彼女は店の再興のために翌年幸次郎という書生を婿養子に迎える。しかし、彼女はこの幸次郎の弱々しい所が気に入らず、祝言の翌日に追い出してしまったという。
お慶は肝の座った女性で、1853年、丁度ペリーの黒船が来た年、長崎の出島のオランダ人に頼み、茶箱に入って上海に密航したという。当時の日本は鎖国で、海外に行ったことがバレれば死刑になると言われていた事から考えると、まさに男勝りの勇気と言える。しかも、吉田松陰が海外密航に失敗しているのに対し、お慶はきちんと計画を持って成功していることから見ても一枚上手だ。
この海外渡航でお慶は外国の貿易商人と手を結んで茶商になり、中国の動乱に紛れて日本の茶を輸出する事を考え、同年長崎の出島に在留していたオランダ人のテキストルに頼んで嬉野茶の見本を英米とアラビアの3国に送ってもらう。その3年後、イギリスの商人・オールトがこれに興味を持ち、お慶に12万斤(約72トン)もの茶を注文した。お慶は嬉野だけでは間に合わず、九州全土を走り回り、その3年後の1859年、ようやく1万斤の茶を集めて長崎港からアメリカに茶を輸出する。それでも彼女は大成功を収め、お慶の名前は茶商として、特に外国人に知れ渡るようになる。
丁度この時期から長崎には多くの志士たちが集まるようになり、お慶はその資金力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、面倒をみてやったという。中でも彼女が一番援助したのは坂本龍馬とその海援隊の若者たちだったという。亀山社中が三本マストの西洋帆船(大極丸)を買う時に、気前よく12000両の大金を貸してくれた。海援隊結成の話しは清風亭で進められた。
維新後は志士の姿も減るが、熊本藩士遠山一也が現われてお慶に取り入り、オールトとタバコの売買契約を結び、手付金を受け取るとそのまま行方をくらませた。遠山は輸入反物の相場に失敗し、その借金返済のためにお慶を騙したのだった。保証人になっていたお慶は家を抵当に3000両、今で言えば3億円もの借財をかぶり、膨大な裁判費用まで払うことになってしまう。結局お慶は死ぬまでの間にこの借財をすべてきれいに返済したという。幕末に多くの志士を助けた彼女だが、明治の元勲になった者たちからの援助は少しもなかったという。1884年、55歳で亡くなった。
彼女には伝説的な話が多いが、明治になって元・米国大統領のグラントが来日した時には、長崎県令(県知事)と共に軍艦に招待されたと言われている。
岡田以蔵1838〜651838年、土佐郷士の足軽の家に生まれる。剣術道場にも満足に通えなかった以蔵は主に独学で剣術を身に付けた。1854年、以蔵18歳の時に武市半平太に拾われ武市の道場に通うことになる。ここで武市に心酔していった以蔵は後に武市と共に行動をする事となり江戸の鏡新明智流・士学館に入る。江戸では坂本龍馬とも親交を重ねた。その後土佐に帰った武市は土佐勤皇党を結成するが、難しい尊皇論議を理解できなかった以蔵は、全ての判断を武市に任せ自分はその手足として働くようになっていく。最初の暗殺は京都での井上佐一郎殺し。これをきっかけに非情なテロリストに変貌する。越後脱藩勤皇浪士・本間精一郎、九条尚忠の謀臣・宇郷重国、東西京都奉行所の与力4人、目明かし文吉、池内大学等を暗殺していった。これらは武市の直接の命令ではなく、以蔵の勝手な行動によるものであった。しかし、坂本龍馬に再会した以蔵は龍馬の願い「勝海舟の護衛」を受けた事によって暗殺剣を振るうことはなくなっていった。この後、以蔵の行動原理であった武市が囚われの身となったことで、志士ではなくなり強盗を働くまでに落ちぶれていく。そして町奉行に捕らえられ入墨刑を受けた後土佐藩警吏に捕縛された。国元では勤皇党員たちへの激しい取調べが行われたが以蔵は武市への忠誠を貫くため耐えつづけた。しかし最後にはその武市の裏切りにより全てを自白する。1865年、以蔵は斬首刑に処せられ河原に晒される。
お龍1840〜1906龍馬の妻。お龍は母親や弟妹を養うため、龍馬たち勤王派の人達の炊事を手伝ったり京都の料理屋で働いたりしていた。龍馬は楢崎家でも料理屋でもお龍に会った事があり、元治元年(1864年)苦しい生活を助けるため龍馬の世話で寺田屋に預けられる。
慶応元年1月、薩長同盟を終えて寺田屋に投宿していた龍馬が襲撃された際には、風呂に入っていたお龍が幕吏に取り囲まれたのをいち早く知り、裸で二階の龍馬らに急を告げた。龍馬と三吉慎三は応戦し、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り救援を求めた。こうして難を逃れた二人は事件後、時を経ず中岡慎太郎の仲人(西郷隆盛説有)で結婚し(内祝言は元治元年8月という説有)西郷の勧めもあって薩摩へ湯治に出かける。これが日本初の新婚旅行だといわれている。
慶応3年9月、下関で龍馬に会ったのが最後となった。
龍馬暗殺の知らせを下関の伊藤助太夫宅で受けたお龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供え号泣したという。それからしばらく三吉慎蔵らの世話になっていたが、墓参りのため京都に向かった。近江屋に泊まり龍馬の霊を弔った。
明治元年7月、土佐の龍馬の実家に迎えられるが一年ほどで土佐を離れることになる。兄夫婦や乙女に疎んじられたためという説もあるが環境があまりにも違いすぎて水が合わなかったというところだろう。土佐を離れて京都に帰り、東山の霊山のの麓に室屋を営んだ。そこは龍馬の墓のすぐ近くであり、墓守をして菩提を弔おうとしたのであろう。だが生活を維持できず、明治5年頃、龍馬の旧友を頼り上京する。
東京では香川敬三(水戸藩出身、陸援隊)らが持ち回りで世話をみてくれた。しかしいつまでも彼らの行為に甘えるわけにもいかず自活の道を求めて旅館の仲居などをしていたがその折用いていた変名が「つる」ではなかったかという。
ついで、お龍は大道商人、西村松兵衛と再婚(入籍は明治八年)して横須賀に住んだが、失意を紛らすため大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった。」と呟いたそうだ。この間、松兵衛との間に子をもうけている。しかし残念ながら幼くして亡くしたようだ。
横須賀の生活も満足なものでなかったが、晩年は貧しいながら穏やかに暮らしたようだ。明治39年没。「贈正四位坂本龍馬乃妻龍子乃墓」。龍馬の妻であることを明記するこの墓碑銘は、お龍にとって最高のはなむけになった事だろう。
河田小龍1824〜98土佐藩絵師。漂流民である「ジョン万次郎」帰国の際に、山内容堂の命を受け、取り調べ、「漂巽紀略」を著した開明派の知識人であった。龍馬は20才の時に訪ねている。この出会いは龍馬の生涯に大きな影響を与えて「世界の海援隊」の出発点となったと言われている。
菅野覚兵衛1842〜93安芸郡和食村の庄屋の三男。土佐勤王党に加盟。海舟門下。土佐人らしい剛毅で気骨ある人間性を龍馬に愛された。お龍の妹、君江と結婚したから龍馬の義兄弟でもある。
明治元年11月、白峰駿馬とともにアメリカ・ニュージャージー州のラトガース大学に留学。明治七年帰国し海軍省に入ったが、不遇であったようだ。龍馬の死後、お龍の面倒を良く見ている。
明治元年には郷里和食村で半年にわたり面倒を見、その後もお龍が横須賀に転居すると、何かと世話をやいている。
木戸孝允1833〜77明治初期の政治家。幕末期には桂小五郎の名で知られる。西郷隆盛・大久保利通とともに維新の三傑とよばれる。長州藩の藩医和田家に生まれ、のち藩士の桂家の養子となる。1849年(嘉永2)吉田松陰の松下村塾に入門、52年に江戸にでて斎藤弥九郎の道場に入り、塾頭にまでのぼった。58年(安政5)の帰藩の後、しだいに尊王攘夷運動の長州藩代表者としての地位をかためた。
開明派とも親しい人脈から尊攘激派とは一線を画し、文久3年8月18日の政変(1863)後も京都に留まり、藩の信頼回復に努めた。しかし藩の出兵行動を抑えられず、1864年(元治元)の禁門の変により潜伏に追い込まれた。65年(慶応元)の討幕派の勝利で藩中枢に復帰、薩摩藩との連帯を勧めて明治維新を導いた。同年から木戸姓に改める。
維新後は長州系首領として大きな影響力をもち、政治路線の違いもあり大久保利通との対立を深めていく。1874年の台湾出兵論に反対して参議を辞任。75年、立憲制を漸次採用していくことを条件に復職したが、大久保専制体制の強化を嫌って、76年に再び辞任。西南戦争中に京都で病死した。
西郷隆盛1827〜77明治維新の指導的政治家。木戸孝允・大久保利通とともに維新の三傑とよばれる。薩摩藩の下級藩士、西郷吉兵衛の長男として生まれる。開明的藩主の島津斉彬に見出されて側近として活躍したが、1858年(安政5)の斉彬の死、および安政の大獄で失脚、奄美大島で幽囚生活を送る。
1862年(文久2)復権した後は、島津久光と折り合わず再度の流罪にもあったが、64年(元治元)の禁門の変から長州征伐、やがて王政復古から戊辰戦争という事態を巧みに主導し、明治維新を成功に導いた。
維新後は帰郷して藩政改革を指導したが、1871年(明治4)に諸条件をのませて新政府の参議に迎えられると、岩倉使節団外遊中の留守政府を預かり、地租改正・徴兵制・学制ほか革新的政策を薦めた。
しかし1873年、征韓論問題で下野。その行動に多くの薩摩藩出身者が従い、彼が遊居する鹿児島県下は私学校生徒を中心に独立王国のようになり、やがて不平士族の盟主と仰がれる様になった。彼らの熱情にも引きずられ、77年に西南戦争を起こしたが敗退し、鹿児島の城山で自殺した。
西郷隆盛と坂本龍馬が初めて出会ったのは、1864年8月中旬頃であったと言われる。龍馬は初めて西郷と出会った感想を、師の勝海舟に次のように語った。「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした」と。
坂本乙女1832〜79末姉。龍馬が乙女宛に送った手紙が20通近くも残されている。幼少より鼻たれ泣き虫といわれた龍馬を叱咤激励し、育て上げた母なる存在であったと言われている。「坂本の仁王さま」と言われていた乙女は、剣術、馬術、水練は相当の腕前でスポーツ万能であったが、料理、裁縫等は苦手であった。
白峰駿馬1847〜1909越後長岡藩士の三男。海舟門下、神戸海軍操練所を経て社中へ参加し、龍馬にその才を認められ「大極丸」の若き船将を勤めた。
明治元年11月、菅野覚兵衛とともに米国に留学し造船・機械について学んだ。留学は6年に及ぶ。帰国後、日本最初の民間造船所である白峯造船所を設立し激動の時代何度も倒産、再建を繰り返した。
世上の富貴栄達を一切度外視し、自由奔放に激動の世を生きた。
関義臣1839〜1918福井藩の支藩・府中藩士の二男。福井藩校の「明道館」に学び、文久元年、府中を出て東西に歴巡。その後、江戸の昌平坂学問所に学び舎長になる。慶応2年12月、長文の意見書を携え長崎に龍馬を訪ね、意気投合し亀山社中の一員となった。維新後は鳥取県・徳島県・山形県の知事を歴任し府中藩出身唯一の男爵になる。
田中光顕1843〜1939田中光顕は中岡慎太郎の志を明治へと繋いだという意味で、歴史に果たした役割が大きい。初めは武市半平太に師事し、土佐勤王党に加盟する。京都で尊王攘夷運動を行い、諸藩の志士たちと接触した。
文久三年(1863)の8月18日の政変で謹慎処分を受けるが、翌年には土佐藩を脱藩。大坂で土佐浪士・大利鼎吉一党による大坂城焼き討ち計画に参加した。しかし、この計画は事前に発覚し、田中は長州へ逃亡し、高杉晋作と接触して知遇を得ている。この頃、薩長同盟締結のために長州入りしていた中岡慎太郎を補佐し、薩長同盟の実現にも尽力した。
第二次長州征伐では、海軍総督となった高杉晋作と共にオテントサマ号に乗船し、機関士として幕府軍相手に戦っている。中岡が陸援隊を組織すると、これに参加して活躍。中岡の死後は陸援隊の隊長となり、鳥羽伏見の戦いでは紀州・大坂に睨みを効かせ、牽制役を果たしている。明治政府では、岩倉具視らの欧米使節団に同行。帰国後は政府の要職を歴任し、伯爵にまで出世した。
トーマス・グラバー1838〜1911幕末〜明治初期のイギリス人貿易商。スコットランド東海岸のアバディーン郊外のフレイザーバラに生まれる。1858年(安政5)上海にわたり、同地のイギリス商社に勤務ののち、翌年9月19日、開港直後の長崎に来航。62年(文久2)グルームらとグラバー商会を設立するとともに、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店をかねた。
最初は茶、生糸などを輸出したが、文久3年8月18日の政変以後、国内政局の激動に便乗してジャーディン・マセソン商会から資金を借り入れ、薩摩藩、長州藩、佐賀藩、久留米藩、熊本藩、土佐藩などの西南諸藩に艦船、武器、弾薬類を売って営業規模を飛躍的に拡大させ、横浜や上海に支店をおいて長崎最大の貿易商となった。
1863年、横浜で伊藤博文、井上馨らの渡英資金を融通したり、65年(慶応元)には五代友厚、森有礼らの薩摩藩留学生の派遣を援助する一方、坂本龍馬と薩摩藩の仲介で長州藩に銃砲を売却するなどして薩長同盟の成立に貢献した。さらに英国公使パークス着任後、彼を説得して薩英提携を推し進め、イギリスの反幕府の立場を明確にさせる上で重要な役割をはたした。
長崎小菅ドックの建設や高島炭鉱の開発にも関わり、明治新政府の造幣機械輸入の仲介に尽くすなどしたが、維新後の政治的混乱と軍需品需要の衰退などによって、1870年(明治3)8月、グラバー商会は資金難で破産する。破産後は三菱に雇われ石炭販売の業務に関わる。85年には東京に移り住み、日英合弁のジャパン・ブルワリー社(麒麟麦酒の前身)の設立に参画し、取締役に就任した。日本人女性との間に2人の子供をもうけた。長崎市南山手町にあるグラバー邸は、1863年に建築された旧宅である。
長岡謙吉1834〜72医者の家に生まれた長岡は安政6年(1859)長崎に留学。シーボルトに医術を学んだ。龍馬とは遠縁にあたる。
文久元年(1861)シーボルトが国内追放された事件に連座して国許へ送還される。約半年の獄中生活の後、蟄居させられるが脱藩し再び長崎に行き、上海や香港を視察する。その後社中に参加し、文司として「海援隊約規」や「船中八策」の文書化などを手がける。また海援隊の出版事業である「閑愁録」「藩論」「和英通韻以呂波便覧」などを著したとも言われている。
社中、海援隊きっての学識者。慶応四年(1868)海援隊々長に任じられ、瀬戸内海諸島の鎮撫に力を尽くしたがわずか1ヶ月で三河県知事に転じた。ここで海援隊は役目を負え消滅した。その後、大津監察、民部省、工部省に務めたが、明治5年(1872)6月11日将来を嘱望されたが若くして病死した。
山内容堂1827〜72藩租の山内一豊から15代目にあたる土佐藩15代藩主。分家の山内豊著の長男として生まれ、1848年(嘉永元)13代藩主豊熙(とよてる)が病死し、後継者であった豊熙の弟の豊惇(とよあつ)も急病死したため、宗家を相続した。
はじめ隠居の12代豊資と門閥譜代たちに行動を制約されたが、1853年のペリー来航を機に藩政改革をおこない藩政を掌握した。世情の混乱にともなって将軍継嗣問題が起きると、一橋派として中央政局にも積極的に参加したが、安政の大獄により、59年(安政6)に隠居を余儀なくされた。
1862年(文久2)幕府から謹慎を解除されると公武合体論で政局を主導しようと活動を再開したが、藩内および中央政局の激しい推移によりかなわなかった。明治新政府では名誉職に就くが、69年(明治2)以降は隠棲生活に入った。
参政吉田東洋を傍らにおいて、自から「鯨海酔候」とあだ名したほど酒好きであった。龍馬とは身分の違いから一度も会っていない。武市半平太は最後まで土佐藩主に望みを託したが、龍馬は早くからこの藩主には見切りをつけていたと思われる。
近藤長次郎1838〜66龍馬より3才年下で、龍馬と同じ高知城下の饅頭屋の息子。龍馬に誘われて神戸海軍塾に入り、塾の閉鎖後は、龍馬と共に、亀山社中の同志となる。薩長和解の物的条件となる軍艦ユニオン号や武器銃砲購入斡旋をグラバーに働きかけるなど、龍馬の右腕として活躍する。しかし、密に単独英国留学を計画するも、これが露見し、同志に亀山社中内規違反に問われ、切腹し果てる。龍馬が出張中の出来事ではあったが、龍馬は深い悲しみと、リーダーとしての責任を痛感し、心に深く刻み込んだ。
近藤勇1834〜68幕末の新選組局長。名は昌宜。武蔵国上石原村(東京都調布市)の農家、宮川久次郎の3男として生まれる。天然理心流宗家、近藤周助の試衛館で剣術を学び、1849年(嘉永2)に望まれて周助の養子となった。
はじめ、周助の実家である島崎家には入って島崎勝太と名乗り、多摩郡内を出稽古に歩いた。1860年(万延元)、周助の跡を継いで天然理心流4代目となり、近藤勇と名乗る。
1863年(文久3)に将軍徳川家茂の上洛にあたり募集した浪士隊に、門下の土方歳三、沖田総司らと共に参加する。浪士隊の内部で意見の対立から清川八郎らが江戸に戻った後も、京都壬生村に駐屯した。壬生浪人とも呼ばれた近藤らは、会津藩主松平容保の配下に入って新選組を組織し、会津藩別動隊となった。初代局長・芹沢鴨が乱行のため暗殺されると、近藤が局長となる。
新選組の仕事は尊攘派志士の取り締まりで、その名を高めたのは1864年(元治元)の池田屋事件である。禁門の変では洛中洛外の治安維持に活躍し、67年(慶応3)に新選組隊士105名は幕臣となった。同年坂本龍馬、中岡慎太郎らが狙撃された事件で容疑をかけられた近藤らは、先に新選組から離脱した伊東甲子太郎らの仕業と判断し、これを切る。のち、近藤は伊東らの残党に狙撃されて負傷し、大坂で療養した。
鳥羽・伏見の戦い後、江戸に引き上げて、名を大久保大和とかえると、甲陽鎮撫隊を組織して、1868年3月、甲斐国勝沼(山梨県勝沼町)で官軍と戦うが敗走、下総国流山(千葉県流山市)で捕らえられた。江戸の板橋宿の刑場で処刑され、首は京都三条河原に晒された。墓は生家跡近くの東京都三鷹市の竜源寺にある。子の勇五郎が刑場から亡骸を貰い受け、ここへ葬ったのだという。
五代友厚1835〜85明治期の実業家・政商。薩摩藩の儒官である五代直左衛門の2男として生まれる。1854年(安政元)藩の下役である郡方書役となる。57年、藩から選ばれて幕府の長崎伝習所に学んだ。その後、68年(明治元)まで主に長崎に居住して幕臣や他藩士と交友し、とくに外国商人トーマス・グラバーと親密な関係をもった。この間、59年(安政6)には幕府船で上海に渡り、密かに藩の為に汽船などを購入。また65年(慶応元)からは藩命で留学生を連れて西洋列強を視察し、武器・汽船・紡績機械などを購入した。
維新後は外交事務などに携わったが、1869年(明治2)に会計官権判事のとき退職、富国強兵のためには商工業の振興が必要という持論の実践のため実業に転じた。弘成館による鉱山経営の他、藍の製造販売、貿易商社、交通運輸業などに関わったが、特に堂島米商会所・大阪株式取引所の設立を援助し、大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)設立に尽力して終身会頭を務め、大阪を中心に関西商工業の発展に尽くした。
1873年の征韓論争以降、政府の実力者の大久保利通と深く結びつき、政府や財界に広い人脈を持った。81年には開拓使官有物払下げ事件の中心人物の一人として非難されている。
後藤象二郎1838〜97幕末・明治期の政治家。土佐藩士の子として高知に生まれる。吉田東洋の推挙で郡奉行・普請奉行などに就くが、勤王党による東洋暗殺後は職を辞し、江戸の開成所で学びながら逆境に耐えた。1863年(文久3)藩論が勤王党取り締まりにかわると大監察となり、65年には東洋を暗殺した武市瑞山らを断罪して土佐藩の実権を握る。以後、東洋の政策を受け継ぐ。のち坂本龍馬の影響をうけ、藩主山内豊信を説いて幕府に大政奉還を建白させるなど、公武合体に尽くした。
明治維新後は左院議長・参議などを歴任するが、1873年(明治6)征韓論で破れて辞任。翌年板垣退助らと愛国公党を組織し、民撰議院設立建白書を政府に提出したが却下された。81年には板垣らと自由党を結成するが、弾圧に動揺し、翌年に板垣らと政府筋の資金で渡欧、問題となった。その後も87年に反政府勢力に呼びかけ大同団結運動を起こしたり、89年には一転して黒田清隆内閣の逓信相に就任するなど、政治的姿勢が一定しなかった。以後も何度か入閣したが、晩年は病気のため不遇であった。
高松太郎1842〜98龍馬の姉、千鶴の長男、龍馬の甥にあたる。
土佐勤王党に加盟。海舟門下、神戸海軍操練所を経て社中へ。殆んど龍馬と行動を共にしていた。
明治4年8月、朝廷の命に依って龍馬の家督を継ぎ永世十五人扶持を給せられ、名を「坂本直」と改めた。家督相続後、東京府に出仕して重職を歴任したが明治22年キリスト教を信奉したことで失脚し、高知に帰郷。晩年は不遇だった。
実弟、直寛(南海男)は龍馬の兄、権平の養子となり明治4年、権平死去をうけて坂本家家督を相続している。
高杉晋作1839〜67幕末の長州藩における討幕運動の指導者。長州藩番方職の中核である大組士の家に生まれる。1857年(安政4)藩校明倫館に入校するが、満足せずに吉田松陰の松下村塾に入門、松陰に見識を高く評価された。
1861年(文久元)藩世子の小姓役となり、翌62年、藩命で上海へ渡航。植民地化する中国の実情や太平天国の乱を見聞して大きな影響を受けた。帰国後、品川のイギリス公使館を焼き打ちするが、やがて激情的な尊王攘夷運動と距離を置き、63年3月、藩へ10年間の暇を願い出て剃髪し、東行と称した。
しかし1863年6月、アメリカ・フランス艦による下関報復砲撃(下関事件)直後に下関防御を任され、郷土防衛のため奇兵隊を結成。奇兵とは藩の正規兵(正兵)に対する名で、ゲリラ的な意味も含まれていた。実力中心主義を取り、藩士のほか百姓や町人も加わっていた。奇兵隊を中心とする諸隊の力で藩中枢に入るが、64年には藩内の京都への出兵論に反対して脱藩、投獄された。
のち許されて1864年8月の四国艦隊下関砲撃事件の外交処理にあたるが、第1次長州征伐の進行で対立する佐幕派の勢力が大きくなったため、北九州へ逃亡。同年末に伊藤博文の力士隊に挙兵させ、翌65年(慶応元)初めには討幕派を集めて決起、藩政の主導権を握った。第2次長州征伐では小倉方面の戦闘を指揮したが、病のため要職を退き、27歳8カ月の若さで下関で病死した。
龍馬が持っていたリボルバー式の銃は高杉晋作が上海で買ってきたものを龍馬に贈ったと言われている。第二次長州征伐の時には龍馬はユニオン号という西洋船で関門海峡まで出張し、長州、特に下関方面を受け持っていた晋作と共に幕府軍と戦っている。
佐久間象山1811〜64幕末期の思想家。名は啓、象山は号。「ぞうざん」ともいう。信濃国松代藩士の子として城下で生まれる。はじめ儒学や和算を学び、家督を継いだのち1833年(天保4)江戸に遊学。42年、主君・真田幸貫が海防掛老中に就任すると、顧問に選ばれ、海外事情の研究を命じられた。
アヘン戦争(1840〜42)でイギリスに清が敗れた事もあり、海防の重要さを痛感、江川太郎左衛門に西洋砲術を学ぶ。洋学(蘭学)の知識を得る為オランダ語を学び、1851年(嘉永4)に西洋砲術の塾を開いた。弟子には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らがいる。54年(安政元)に松陰の海外密航未遂に連座し、松代に蟄居を命じられた。62年(文久2)に赦免されると、幕府の命によって京都へ行き要人に公武合体論、開国論を説いたが、尊王攘夷派に暗殺された。
その思想は、人間内部の倫理をきわめる東洋の道徳と、天地万物の理を明らかにする西洋の科学技術が朱子学によって統合されている。道徳や社会体制は伝統的なものを、科学技術などは西洋のものを積極的に取り入れようとした。
坂本権平1814〜1871坂本龍馬の兄。龍馬とは年齢が21才離れている。篤実な人物であったと伝えられている。
三吉慎蔵1831〜19011831年(天保2年)10月11日長府藩士小坂土佐九郎の次男として生まれ、安政4年(1857)三吉十蔵の養子に迎えられた。文武両道に秀で、藩主の信任厚い慎蔵は、1863年(文久3年)8月22日長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の監督となりる。また、山口在藩役や東豊浦郡代などを歴任し、慶応元年(1865)には永代馬廻格に遇せられた。
慶応2年正月、慎蔵は印藤聿の紹介で坂本龍馬と初めて対面し、藩命を受けて上京、薩長同盟締結直後の同月24日夜、潜伏中の寺田屋で龍馬とともに遭難し、以後龍馬と慎蔵の関係は親密なものとなった。また、慎蔵は龍馬のみならず、西郷隆盛や中岡慎太郎など明治維新の実現に多大な功績を残した人々とも交流を重ねている。また、龍馬暗殺の悲報を龍馬の妻お龍へこの慎蔵が伝えたと言われている。
維新後、慎蔵は、明治の元勲たちと交流を続けましたが、自ら高位高官を望むことなく、長府毛利家の家扶として亡くなる数日前まで出務し、1901年(明治34年)2月16日病死した。
児島惟謙1837〜1908明治期の裁判官。名は「これかた」「これかね」とも読む。伊予宇和島藩士の金子惟彬の2男として生まれる。のち父の実家の緒方姓を名のる。幕末には、討幕運動に身を投じ、3度にわたり脱藩、長崎では坂本龍馬や五代友厚らと接触したとも言われる。脱藩の時に用いた変名の児島惟謙を終生の本名にしたと言われる。
1871年(明治4)に司法省に出仕し、以来、法曹実務をとおして法律を独学する。その後は累進して名古屋裁判所長、大阪控訴裁判所長などを歴任した。91年5月大審院長に就任するが、その6日後に来日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)が警護の津田三蔵巡査に襲われ負傷した大津事件が発生、その裁判で一躍名声を得る事となった。事件は、当時の政府をはじめ多くの日本人に大きな衝撃を与えた。
裁判では、時の松方正義内閣は死刑に相当する「皇室に対する罪」(旧刑法116条)を犯人に適用するよう児島に迫った。しかし、児島は政府の裁判干渉と圧力を跳ね除け一般人の「謀殺未遂罪」(同112条)を適用し、津田に無期徒刑(無期懲役)の判決を言い渡した。この裁判で児島は「護法の神」「護法の巨人」などの評価を得たが、判決そのものは近代法学の基本的人権擁護の精神とは関係なく、皇室に関する法律を外国人に適用するのを避けた結果だといわれる。
1892年に起きた大審院判事の花札賭博事件、いわゆる司法官弄花事件に連座し、免訴の判決が下るが、責任をとって大審院長を辞任。その後、貴族院議員や衆議院議員を務めた。
勝海舟1823〜99幕末・維新期の政治家。通称は麟太郎、名は義邦、のち安芳。海舟と号した。旗本小普請組の勝小吉の長男として江戸に生まれる。他の旗本と同じく、幼少時代は貧困生活を送った。箕作阮甫にオランダ語を学ぼうとして、「性急な江戸っ子には蘭学は向かない」と断られた話は有名。
1845年(弘化2)ごろから永井青崖に蘭学を学んだ後に蘭学塾を開き、諸藩の発注を受けて鉄砲・大砲を造り家計にあてた。この間、蘭和辞典「ドゥーフ・ハルマ」58巻の筆写を2部完成させ、1部を売っている。
1855年(安政2)長崎に新設された海軍伝習所の伝習生となった事で、人生の転機をむかえた。幕臣・諸藩士から集まった伝習生約200名の中には、榎本武揚・五代友厚らがいた。海舟はここでオランダ士官らから海軍将校としての技術を修得し、59年江戸に帰府。翌60年(万延元)、日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに使節が派遣されるにあたって咸臨丸を指揮し、日本人初の太平洋横断航海に成功した。
アメリカ社会を見聞して帰国してからは、江戸幕府14代将軍徳川家茂の信頼と人材登用の時勢にのって各職を歴任、1862年(文久2)には軍艦奉行並に昇進した。64年(元治元)には軍艦奉行となり、神戸に海軍操練所をひらいて幕臣や坂本龍馬を教育した。また戊辰戦争では西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を決めている。明治期には新政府の相談役、徳川家の後見人的存在として重要な地位にあり、87年(明治20)には伯爵となった。
新宮馬之助1838〜66新宮村の農民の次男。幼少から画才に優れ、河田小龍に絵と学問を学んだ。このころ龍馬と出会い、文久3年1月、龍馬の紹介で勝海舟の門下生になる。その後は海軍操練所を経て社中、海援隊へ。新宮馬之助は色白の美男子で、何かのきっかけで上気すると直ぐに顔が紅味を帯びるところから「赤面の馬之助」と呼ばれていた。維新後は軍に所属し海軍大尉にまで進んだが、その後第一線を退き明治20年没した。
石田英吉1839〜1901郷士、医者の息子。文久元年、医学を修めるために大坂に出て、蘭医の大家・緒方洪庵の門に入る。文久三年に脱藩し八月天誅組の大和挙兵に加わる。元治元年七月の禁門の変では忠勇隊に所属、その後奇兵隊に参加するも龍馬から誘われ亀山社中に入る。海援隊付属の「横笛丸」船長として海援隊の海運事業を担当。龍馬死後、長岡謙吉とともに瀬戸内海諸島の鎮撫に力を尽くし奥羽鎮撫総督府の参謀として秋田方面に出征して各地を転戦した。その学識もさることながら池内蔵太に勝るとも劣らぬ歴戦の雄である。
維新後は新政府に出仕し、重職を歴任。明治23年には陸奥宗光農商務大臣のもと次官を務め、貴族院議員に勅撰された。明治25年11月から30年4月まで郷里高知県の知事を務めた。
千葉周作1794〜1855江戸後期の剣術家で、北辰一刀流の創始者。字(あざな)は成政。陸奥国栗原郡荒谷村(宮城県古川市)で、千葉幸右衛門の2男として生まれる。祖父の吉之丞は北辰夢想流剣術の開祖で、周作も父について家伝の剣術を習った。父が松戸(千葉県松戸市)に移って獣医を開業した際、周作は旗本喜多村正秀に仕える事になった。以後、浅利義信について小野派一刀流の剣術を学び、さらに義信の師匠である中西子正について腕を磨いた。
その後、喜多村家から独立して北辰一刀流を創始、剣術指南で生計をたてることを決意した。武者修行の途中、1823年(文政6)には、伊香保温泉の薬師堂に門人らと額を奉納しようとして、馬庭念流の門人らといがみ合い、岩鼻の代官が仲裁に入るという事件もおこしている。のち江戸にもどり、日本橋に玄武館という道場をたてた。
道場が神田お玉ヶ池にうつるころには多くの門人をかかえ、試合名人の周作の名声は江戸中に広まっていたという。1835年(天保6)からは水戸藩にまねかれ、弘道館で剣術指南役をつとめた。斎藤弥九郎、桃井可堂とともに幕末三剣士として知られる。また清川八郎や坂本龍馬ら幕末の志士たちが千葉道場で腕を磨いた事も有名である。
沢村惣之丞1844〜68土佐藩地下浪人沢村禎次の子。間崎哲馬に学問を習い、土佐勤皇党に加盟した。ただし、名簿に名前がない。文久2年(1862)、吉村虎太郎らと共に脱藩して、長州に向かったが、情勢を武市半平太に報告するため一旦帰国。再度、土佐を離れる際に坂本龍馬と一緒に脱藩する。その後は下関で龍馬と別れて上京するが、寺田屋騒動の勃発のため河端家の公卿侍として時勢を静閑。のち龍馬の紹介で勝海舟の門へ入り以後、社中・海援隊と行動をともにした。隊内では経学や語学にすぐれ、陸奥宗光に英語を教授したほか、外国人の応接にもあたったという。
慶応3年(1867)の龍馬の没後は、仇討ちのため陸援隊士らと天満屋へ斬り込みをかけ、翌年には長崎奉行所の平定にも参加した。この際酒気をおびて抜刀した薩摩藩士を射殺したため薩土の関係悪化を懸念して切腹した。享年わずかに25歳だった。
中岡慎太郎1838〜67幕末期の討幕派志士。土佐藩出身。名は道正、光次、慎太郎と通称した。石川誠之助などの変名も使った。土佐国北川郷(高知県北川村)の大庄屋の長男として生まれる。15歳で間崎哲馬(滄浪)に師事し、17歳で武市瑞山に剣術を習う。
大庄屋見習となり、父を助けていたが、1861年(文久元)に瑞山が土佐勤王党を結成するとただちに加盟、翌年、五十人組の伍長として江戸にでて尊王攘夷運動に参加した。同年末には松代に蟄居中の佐久間象山を訪ねている。63年、京都から元藩主山内容堂にしたがって帰郷するが、文久3年8月18日の政変後、藩当局は藩内の勤王党の弾圧を強化したため、脱藩して周防国三田尻(山口県防府市)に走った。このころ石川誠之助の変名を用いている。
1864年(元治元)の禁門の変には長州軍の遊撃隊として参加したものの、負傷して長州に戻り、忠勇隊総督となって三条実美ら五卿に仕えた。66年(慶応2)に坂本龍馬の協力をえて、長州藩と薩摩藩の軍事同盟(薩長同盟)を実現させている。
この時、土佐藩の同志にむけて「時勢論」をあらわし、これから天下を起こすのが薩長両藩である事を予測している。幕府による第2次長州征伐が失敗し、討幕の動きが強まると、1867年脱藩の罪を許され、土佐藩の板垣退助と西郷との間を仲介し、さらに土佐藩と広島藩との盟約にも尽くした。
同年、京都白川で陸援隊を組織し、坂本の海援隊とともに土佐藩の遊軍として武力討幕の機を伺っていた折、坂本の下宿、近江屋を訪問中、幕府見廻組と思われる一団に襲われ重傷をおい、死去した。このとき坂本も暗殺されている。
中江兆民1847〜1901明治期の自由民権思想家・評論家。土佐藩の足軽の子として高知に生まれる。本名は篤介で、兆民は号。藩校致道館で学び、1865年(慶応元)藩の留学生として長崎でフランス学を学んだが、ここで坂本龍馬を知り、密かに師とあおいで、開明的思想を吸収した。また69年(明治2)には箕作麟祥の家塾でフランス語を学んだ。71年司法省から派遣され、岩倉使節団に同行してフランスへ留学、74年の帰国後に東京外国語学校(東京外国語大学)校長となる。のち元老院権少書記官に就くが、77年に辞職。その後は官職に就かなかった。
1881年西園寺公望の主宰で創刊された「東洋自由新聞」の主筆となり、人民の抵抗権・革命権の主張、専制政府の批判などフランス流の自由民権論をといた。82年から「民約訳解」を雑誌に連載して、ルソーの社会契約論・人民主権論などを紹介、東洋のルソーとよばれ政治を目指す青年層にも大きな影響を与えた。87年の著作「三酔人経綸問答」では小国主義・非武装国家を提唱した。
保安条例で東京を追放され、1888年大阪で「東雲新聞」を創刊。普通選挙論、差別問題是正の部落解放論など民主主義思想を主張した。90年の第1回総選挙で衆議院議員に当選したが、予算問題での自由党土佐派の裏切り的妥協に憤って辞職。のち事業を手がけて失敗、1900年には国民同盟会に入るなど、国権主義的な思想に傾いた。01年にガンの宣告をうけて執筆した「一年有半」「続一年有半」はベストセラーとなった。
中島作太郎1846〜99元治元年11月脱藩。隊士の中では1番年少。若くして亀山社中に入り、龍馬から小姓のように可愛がられた。社中を経て海援隊に参加。若いが実務の才に長け龍馬の代理として「いろは丸事件」では紀州藩との交渉に尽力した。龍馬が暗殺された後、陸援隊へ参加した。海援隊の中では同年輩の陸奥宗光と気が合い、終生公私にわたる深い交際があった。新政府では重職を歴任し明治23年の第一回衆議院議員選挙に神奈川県から立候補して当選し、初代衆議院議長を務めた。
中浜万次郎1827〜98ジョン万次郎として知られる幕末〜明治初期の漂流者、英語教師。土佐の中浜浦(高知県土佐清水市)の漁師の家に生まれ、1841年(天保12)14歳のとき、カツオ漁に出て遭難し、鳥島(伊豆諸島)に漂着。無人島の生活143日にして、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助された。
船号にちなんでジョン・マンの愛称でよばれた万次郎は、その利発さを船長に愛され、マサチューセッツ州の捕鯨基地ニューベドフォードに伴われた。この地の学校を優秀な成績で卒業後、ふたたび捕鯨船に乗って働き、ドレーク海峡や喜望峰を越え、太平洋、大西洋、インド洋を巡航、鎖国時代の日本人としては珍しい世界体験をしている。
やがて乗組員の選挙によって副船長に選ばれたが、鎖国日本の外国船撃退が、各国の捕鯨仲間に評判が悪い事を憂い、帰国を決意。捕鯨の収入と、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて得た資金で、捕鯨船アドベンチャラー号を買い入れ、1850年12月27日にホノルルを出発、翌51年(嘉永4)1月3日、沖縄の摩文仁海岸(糸満市)に接岸した。
長崎奉行および土佐藩の取り調べを受けた後、藩士に登用されて中浜姓を名乗る。万次郎の見聞は、取り調べにあたった河田小竜を通じて後藤象二郎や坂本龍馬にも影響を与えたと言われる。
その後、幕府に招かれて江川太郎左衛門の手付(秘書役)となり、英語教授、外交文書翻訳などを務めたが、1853年のペリー提督の来航の際は、徳川斉昭をはじめとする攘夷派は、万次郎がアメリカのスパイをするのではないかと懸念し、通訳に起用する事に反対した。
しかし1860年(万延元)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節には通弁(通訳)主事に選ばれ、咸臨丸で活躍した。のち薩摩藩で軍艦操縦や英語の指南役を務め、明治政府では開成学校の英学教授となった。プロイセン・フランス戦争(1870〜71)には、大山巌らとともに視察のためヨーロッパに派遣されたが、その後は病弱を理由に官途を辞した。
2000年(平成12)にアメリカの古書店で万次郎を救出したジョン・ホーランド号の乗組員ライマン・ホームズの航海日記が見つかった。その中には救出された時の様子や船での生活が生き生きと書かれており、万次郎研究の貴重な資料といわれた。
武市瑞山1829〜65幕末の尊攘派志士。名は小楯、通称を半平太といい、瑞山は号である。土佐国長岡郡吹井村(高知市仁井田)の郷士、武市半右衛門の長男。若い頃から剣術に優れ、1860年(万延元)3月の桜田門外の変などを機に尊王攘夷運動が激化すると、秋から中国、九州の諸藩を巡歴した後、61年(文久元)6月、江戸にのぼった。江戸滞在中に長州藩の久坂玄瑞、木戸孝允、薩摩藩の岩間金平、樺山三円、水戸藩の住谷寅之介などの尊攘派の志士を知り、彼らと交流する中で土佐藩勤王派の組織化を決意した。
1861年9月に土佐に戻って土佐勤王党を結成し、加盟者は下士、郷士、村役人層を中心に200名余に及んだ。坂本龍馬や中岡慎太郎もその一員であった。龍馬はこの土佐勤王党の9番目に血盟している。お互いに「あざ(龍馬)とあぎ(半平太)」、「ほら(龍馬)ときゅうくつ(半平太)」と醜名で呼び合う仲だった。当時藩政を主導していた参政吉田東洋は公武合体論の立場にあり、瑞山は持論の挙藩勤王をもって東洋を説得したが聞き入れられず、62年4月、藩政改革に不満を持つ保守派と結んで東洋を暗殺、藩政府から吉田派を一掃して藩論を尊王攘夷に導いた。
1862年8月、藩主の山内豊範と共に上京し、在京中は他藩応接掛として活躍する一方、幕府に攘夷を促す事などを目的とした勅使派遣に尽力して、10月の勅使東下にあたっては副使の姉小路公知の用人として従っている。63年1月には京都留守居役に昇進したが、文久3年8月18日の政変をきっかけに尊王攘夷運動が後退すると、土佐藩でも公武合体論者の前藩主山内容堂の主導のもと、後藤象二郎らにより勤王党に対する弾圧が始まった。瑞山は同年9月に投獄され、65年(慶応元)閏(うるう)5月、切腹を命じられた。
陸奥宗光1844〜97明治期の政治家。和歌山藩士の6男として生まれる。幕末期に坂本龍馬の率いる海援隊に入隊して討幕運動に参加、明治維新後は兵庫県知事、元老院議官などを歴任した。
1877年(明治10)西南戦争が起こると土佐立志社の政府転覆計画に加わり、翌年投獄される。獄中でベンサムの著作を翻訳し、83年出獄。88年に駐米公使となり、メキシコとの対等条約調印を果たした。帰国後に山県有朋内閣の農商務相を務め、92年伊藤博文内閣の外相に就任し、懸案の対外不平等条約改正に着手する。
1894年には日英通商航海条約の締結に成功した。これは治外法権の撤廃と税権の一部回復を内容とするもので、駐英公使青木周蔵がロンドンで調印した。
また同年、朝鮮で甲午農民戦争がはじまると出兵を決定し、日清戦争に突入した。翌年に日清講和会議の全権として伊藤首相とともに下関条約を成立させたが、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉をまねいて遼東半島を返還、96年に外相を辞任した。日清戦争の外交について詳しく記した回想録「蹇蹇録」がある。




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