坂 本 龍 馬 の 年 表


1835年11月15日 坂本直足の次男として高知城下に誕生

1848年 日根野弁治の小栗流剣術学ぶ

1846年8月10日 母、幸を失う

1853年3月 日根野弁治より「小栗流和兵法事目録」一巻を伝授

1853年3月17日 剣術修行の為、江戸へ

1853年4月 千葉道場に入門

1853年6月 ペリー艦隊来航。龍馬、品川海岸の警備にあたる

1853年12月1日 佐久間象山に入門し、西洋砲術を学ぶ

1854年6月23日 剣術修行の期間終了し、江戸より帰国

1854年7月 小栗流和兵法十二箇条・二十五箇条を伝授

1854年11月5日 河田小龍に海外事情を聞く

1855年12月4日 父・八平、病死

1856年8月20日 再度、江戸に遊学

1857年8月14日 時計盗難の事件を起こした山本琢磨を逃がして、命を助ける

1857年9月 剣術修行期間終了するが、さらに一年の延長を許可される

1857年10月3日 江戸で武術大会に参加

1858年1月 北辰一刀流長刀兵隊法目録伝授

1858年9月3日 土佐に帰国

1858年11月23日 立川関にて水戸浪士、住谷寅之助・大胡筆蔵と面会

1859年9月20日 西洋砲術家・徳弘孝蔵の門人帳に名を連ねる

1861年8月 武市半平太が土佐勤王党を結成

1861年9月 武市の土佐勤王党に加盟

1861年10月 小栗流和兵法三箇条を伝授

1861年10月11日 29日間の国暇を許可され讃岐の丸亀に発つ。この日の樋口真吉の日記には「坂龍飛騰」と記される

1861年11月 国暇期限満了のため翌年2月までの延長を願い出て許される。瀬戸内海を渡り、安岐の坊ノ砂に向かう

1862年1月14日 長州・荻に赴き久坂玄瑞を訪ねる

1862年2月29日 高知に帰国

1862年3月24日 脱藩

1862年4月1日 下関・白石一郎宅訪問

1862年5月 単身九州を訪れ、薩摩入国できず

1862年閏8月22日 江戸に下り、千葉道場に寄宿

1862年10月 勝海舟邸に訪れ、勝の思想に共感し弟子入り

1862年12月17日 勝に従い、順動丸で兵庫に

1863年1月8日 望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助を海軍塾に入門

1863年1月16日 勝海舟、伊豆下田で山内容堂と面談し、龍馬の脱藩の許しを求める

1863年2月25日 脱藩罪の赦免

1863年3月20日 姉乙女にあてに、勝海舟の門下である事を手紙で報告

1863年4月2日 幕臣・大久保一翁とあう。「大道解すべき人」と評される
1863年4月23日 勝海舟、将軍家茂に神戸海軍操練所の建設を許可される

1863年5月16日 海軍塾の資金援助依頼の為に、越後藩主の松平春嶽のもとへ向かう

1863年5月17日 姉乙女あてに、神戸海軍操練所の一件を報告

1863年9月21日 土佐藩、勤王党を弾圧、武市半平太投獄

1863年10月 神戸にて勝の海軍塾の塾頭になる

1863年12月6日 勝海舟、江戸の土佐藩庁に対して龍馬らの国許召喚延期を願い出るが認められず、以後龍馬らは再び脱藩の身となる

1864年2月19日 勝海舟の命を受けて熊本の横井小楠を訪れ、金品を贈る

1864年4月4日 横井小楠を再訪

1864年4月 お龍と結婚

1864年5月28日 神戸海軍操練所の修業生募集が布告される

1864年6月5日 池田屋事件

1864年6月17日 上京途上の勝海舟と下田港で会い、蝦夷地開発計画を提案する

1864年8月1日 京都に潜入し、お龍を寺田屋にあずける

1864年10月22日 勝海舟に江戸召喚命令下る

1864年11月10日 勝海舟、軍艦奉行を罷免される

1865年3月18日 神戸海軍塾閉鎖

1865年4月 中岡慎太郎と共に薩長両藩の和解を策す

1865年5月1日 西郷隆盛に伴われ、鹿児島に入国

1865年5月19日 熊本沼山津に横井小楠再訪問

1865年5月27日 太宰府で三条実美ら五卿と会い、薩長連合策を進言

1865年閏5月1日 下関に訪れる

1865年閏5月6日 長崎で亀山社中を発足

1865年閏5月11日 土佐で入牢中の武市半平太切腹、岡田以蔵は断首

1865年閏5月21日 西郷隆盛下関に上陸せずに、桂小五郎憤慨し両藩和解せず

1865年6月29日 京都薩摩藩邸に入り西郷と面会。長州藩のために薩摩藩名義で武器・軍艦の購入を要請

1865年7月21日 長州藩の井上聞多と伊藤俊輔、武器・軍艦購入のために長崎に到着
1865年8月26日 近藤長次郎の周旋でイギリス商人グラバーから7300挺の洋式銃を購入した井上、伊藤は下関に戻る

1865年9月9日 姉乙女にあてた手紙で、お龍の事を初めて紹介

1865年10月4日 長州藩士広沢兵助らと山口で会談。薩摩藩への兵糧米の寄進を説く

1865年10月18日 薩摩名義のユニオン号を英国商人グラバーから購入

1865年10月21日 桂と下関で会談

1865年11月 ユニオン号に乗り込み長崎に回航、近藤長次郎に事務処理を託して下関に帰る

1865年12月 長州藩海軍局・中島四郎と「桜島丸改定条約」を結ぶ

1866年1月1日 長府藩士・三吉慎蔵と下関で初対面

1866年1月14日 無断で海外渡航計画をとがめられ、近藤長次郎切腹

1866年1月18日 三吉慎蔵、新宮馬之助、池内蔵太とともに大坂薩摩藩邸に入る

1866年1月19日 新選組の警戒網を潜り抜け、伏見寺田屋に入る

1866年1月20日 京都二本松薩摩藩に桂を訪れ、直ちに西郷に会い、桂の心境を訴えて薩長同盟の締結を説得する

1866年1月21日 薩長同盟成立

1866年1月23日 寺田屋に宿泊中、伏見奉公配下の襲撃に遭い、手に深傷を負う

1866年2月5日 桂の求めで薩長同盟約定に裏書きをし、同盟の保証人になる

1866年3月5日 薩摩藩船三邦丸で大阪出航、お龍と新婚旅行になる

1866年3月10日 鹿児島に到着

1866年3月17日 お龍と塩浸温泉に旅する

1866年3月29日 霧島で遊ぶ

1866年5月2日 新規購入のワイルウェル号が五島塩屋崎にて沈没し、池内蔵太ら亀山社中12人の殉職

1866年6月2日 桜島丸にお龍とともに乗船し鹿児島を出航

1866年6月14日 五島列島に至り、池内らの慰霊碑を建てる

1866年6月16日 下関に到着し、桂に会い、薩摩が受け取りを辞退した兵糧米を亀山社中でもらいうける

1866年6月17日 門司攻撃戦いに参加

1866年6月20日 白石正一郎邸にて、高杉晋作に会う

1866年10月3日 亀山社中、薩摩藩から一人当たり月給3両2分を受け取る

1866年10月28日 プロイセンの商人チョルチーから帆船大極丸を購入

1866年11月 薩摩藩士五代才助と長州藩士広沢兵助を説き、下関に両藩合弁の商社の設立を計画する

1866年12月 下関阿弥陀寺町の本陣伊藤助太夫方を下関での定宿とする

1867年1月11日 長崎上陸

1867年1月12日 長崎「清風亭」で土佐藩参政後藤象二郎と会見

1867年2月 この頃から才谷梅太郎の変名を使用しだす

1867年4月 亀山社中を改編し、土佐藩付属の『海援隊』に

1867年4月19日 いろは丸、武器・商品を満載し長崎出航

1867年4月23日 いろは丸と紀州藩船明光船と衝突

1867年5月13日 長崎に到着

1867年5月15日 紀州藩と談判開始

1867年5月29日 紀州藩より賠償金八万三千両支弁を約し、いろは丸沈没事件解決

1867年6月9日 船中八策起草

1867年6月14日 京都に入り、河原町の酢屋を定宿とする

1867年6月22日 龍馬と中岡の立ち会いで、薩摩と土佐の薩土連約が締結

1867年6月25日 中岡に伴われ、岩倉具視に面会

1867年7月6日 英艦イカルス号水夫殺人事件が起こり、海援隊士が疑われる

1867年8月8日 ひそかに高知に帰る

1867年9月3日 イカルス号事件の審問の席で、イギリス側通訳のアーネスト・サトウに態度の無礼を叱責される

1867年9月10日 イカルス号事件、海援隊士の疑惑解消

1867年9月15日 オランダ商人からライフル銃1300挺購入

1867年9月22日 お龍を下関に預け、これが永遠の別れになる

1867年9月29日 脱藩以来初めて高知の実家に帰る

1867年10月9日 京都に入り、四条河原町の近江屋を定宿にする

1867年10月10日 幕府若年寄・永井尚志と会談

1867年10月13日 大政奉遷を勅許

1867年11月1日 福井に行き、由利公正に会う

1867年11月5日 新政府案参議中に龍馬自身の名をないことを西郷が尋ねると、龍馬は「世界の海援隊でもやる」と答える

1867年11月14日 風邪ぎみで近江屋の土蔵密室より母屋の二階に移る

1867年11月15日 近江屋で中岡慎太郎と共に見廻組に襲われ、龍馬絶命

1867年11月17日 東山霊山に埋葬

1867年12月2日 お龍の耳に龍馬悲報が届く

1867年12月7日 龍馬暗殺の報復事件『天満屋事件』が起こる

1868年3月14日 新政府、龍馬の船中八策を基にした五箇条の御誓文を発表

1868年3月 お龍、長崎から高知に行き、坂本家に身を寄せる

1868年4月 長岡謙吉、土佐海援隊に任ぜられる

1868年閏4月27日 海援隊解散告知

1870年9月 旧見廻組今井信郎、佐々木只三郎ら7名で龍馬暗殺したと自白

1871年8月21日 明治新政府は、養子の坂本直(高松太郎)に永世録十五扶持を贈る

1879年8月31日 姉の乙女、没

1904年2月6日 昭憲皇太子の夢に白装の武士が現れれ、武士は「微臣は、維新前、国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候」といったという

1904年2月7日 その日も昭憲皇太子の夢に現れたので、往年陸援隊副隊長だった田中光顕に連絡をして、龍馬の写真を見ると皇后は「この人である」と言って、龍馬の名が有名になる

1906年1月15日 お龍が没

1909年12月17日 今井信郎 龍馬暗殺の状況を大阪新報記者和田天華子に手紙で記す

1928年5月27日 桂浜に龍馬銅像建つ

1934年1月15日 京都円山公園に龍鵜と中岡慎太郎の銅像建つ

1994年10月 京都市の霊山歴史館で「龍馬を斬った刀」を初公開

1999年8月10日 坂本龍馬の生誕地近くにある高知上町一郵便局が龍馬郵便局と名を変えた

2001年8月1日 お龍の若い頃の写真発見(京都国立博物館)

2003年5月15日 司馬遼太郎記念館の天井に、坂本竜馬の顔そっくりな染みが浮かび上がる

2003年11月15日 国内では初の人名を冠した空港「高知竜馬空港」がスタート





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