坂本龍馬暗殺ミステリー検証
見廻組説 新選組説 紀州藩説 薩摩藩説 中村半次郎下手人説 伊東甲子太郎下手人説 後藤象次郎黒幕説 陸援隊説 龍馬巻き添え説
本命竜馬の考え
幕末の謎とされている、坂本龍馬暗殺。
本事件は慶応3年11月15日深夜、京都河原町の近江屋で土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎、それに龍馬の下僕藤吉が何者かによって暗殺さけたというもの。定説は、京都見廻組の犯行によるもので、計画的に龍馬を襲撃し、中岡と藤吉は巻き添えを食ったものだとされている。しかし、諸説が続出し、真相はミステリーのままなのだ。ここで、色々な説を検証してみよう。
男が近江屋の表木戸を叩く。
龍馬の下僕藤吉が中から出てきた。
藤吉は相撲取りだけあって、大男。
男は「才谷先生(坂本龍馬の変称)がご在宅ならば、お目をどおし願いたい」と言いながら、十津川郷土の名刺を差し出した。
藤吉は「少しお待ちを」と言い二階の龍馬の部屋に消えていった。
男は手で合図をして、七・八人の男を一斉に配置につけた。
二人が戸口を固め、三人が奥の近江屋の主人を「騒ぐな」と脅した。
二階から藤吉が降りてきた。
すかざず、男が抜き打ちで一刀、二刀、三刀・・・
大男の藤吉はもんどりうって転げ落ちた。
大きな音に、二階の龍馬が「ほたえなや」と声をかけた。土佐弁で騒ぐなという意味。
男たちは、それで龍馬の在室を確認したのだろう。
男たちは二階奥の八畳間に飛び込んだ。
だが、部屋には男二人いた。
坂本龍馬ど中岡慎太郎だ。
とまどいながら、敷居上に男たちは正座して、「坂本先生、お久し振りです」と両手をついた。
右にいた龍馬が「はて、どなたでしたかな」と答えた。
右が龍馬だ。
間違いないと、男はにらみ、抜き打ちざまに龍馬の額を真横に払った。
血が床の間の掛軸に飛び散る
驚いた左手の中岡が脇差をつかんで立ち上がろうとしたので、男は「こなくそ」と叫んで、中岡の後頭部に斬りつけた。
深手を負いながらも、龍馬は身をひねって床の間の吉行の愛刀に手を伸ばそうとしたが、男は右肩から背骨にかけて袈裟斬りした。
さらに男は続けざまに三の太刀が襲う。
龍馬は刀を手に立ち上がり、何とか刀の鞘で受け止めたが、その先が天井板を突き破る。
しかし、男の凄絶な気合いとともに打ち込まれた剣は、その防ぎをもろともせずに再び、龍馬の額を傷つける。
龍馬の脳漿が噴き出してきた。
ついに堪え切れずに「石川(中岡の変称)刀はないか、刀はないか」と叫びつつ、その場にがっくりと倒れ伏せる。
中岡も直ぐに短い刀を取り奮闘するも、両手足を斬られ、特に右手はわずかに皮を止めて殆ど切断状態。
ついに中岡も斬り伏せられ、意識を失う。
ところが、さらに中岡の尻を斬りつけた為に(骨に達するほど)、その痛みで中岡は意識を取り戻す
中岡は死んだ真似をして倒れていると、一人の男が「もうよい、もうよい」と言葉を残して去っていった。
この間、二・三分の出来事だった。
やがて、龍馬も蘇生して、刀を抜いて行灯の前ににじり寄って「残念、残念」と口にして、中岡に「慎太、慎太、とうした手は利くか」と問いかけ、中岡は「手は利く」と応じる。
龍馬は八畳間にあった行灯を手に掲げて次の六畳間まで這ってゆき、手摺の所から階下の家人に向かって「新助、医者を呼べ」と、かすれ声で命じたが、すでに力尽きおり「慎太、僕は脳をやられたから、もう駄目だ」と、つぶやいて血の海に崩れ落ちた。
●明治に入り、旧新選組大石鍬次郎が官軍に捕縛された時に、「龍馬暗殺は新選組の仕事ではない。見廻組の仕事である。事件の翌日、近藤勇らが剛勇の龍馬をしとめた見廻組の今井信郎、高橋の働きは感賞するに足る、と言っていたのを聞いた事がある」と告白。
見廻組とは、幕府が京都で設けた特殊治安部隊。
しかし、見廻組の組頭、佐々木只三郎は鳥羽・伏見の戦いで銃弾に当たって戦死している
調べていくうちに、函館戦争の五稜郭の降伏人に問題の今井信郎がいる事がわかり、今井信郎を取り調べると、見廻組の者の所業と自供。
ここで、今井は見廻組組頭の佐々木只三郎の指揮で実行に及んだが、あくまで自分は見張り役と弁明し、龍馬暗殺の直接的な関与を強く否定。
刑部省は今井に対して禁固刑を申し渡した
●霊山歴史館に龍馬を斬った刀剣や資料文書があるが、その中に見廻組桂早之助の自筆佐々木が選んだ龍馬暗殺の人選の由緒書がある。
選ばれた見廻組組士は、桂早之助、渡辺一郎、世良敏郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桜井大三郎、土肥仲蔵の面々だったという
●幕府が龍馬を狙っていた理由
・池田屋事件の浪士の中に塾生がおり、幕府は塾頭の龍馬の行動に危険人物としてマークしていた
・龍馬は長州に通じている反体制的人物
・薩長同盟を成立させた
・寺田屋にて、幕吏が襲った時に、幕吏数名を射殺したため、龍馬は幕府の手配人になった
●今井信郎の証言。明治33年に発行された『近畿論評』5月号誌上の「坂本龍馬殺害者 今井信郎氏実歴談」にて「御維新の時、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは、世間では近藤勇と土方歳三だと思っておりますし、歴史にもそうあれば、の当時の人もたいがいそうだと思っておりましたが、実は私です」と発表。
●佐々木、桂が翌年の鳥羽伏見の戦いでほとんどの見廻組士が戦死し、暗殺の時に中岡も巻き添えにした事で、龍馬暗殺を名乗れなかったので謎になったようだ。
●当時、池田屋事件で有名になった佐幕派の暗殺集団『新選組』である。
●動かぬ物的証拠。
刺客の遺留品の下駄一足(新選組がよく出入りする先斗の瓢亭の下駄)の他に、新選組の原田左之助の鞘が残っていた。
先斗町の瓢亭に、下駄を持って確認に行くと、「昨夜、新選組に貸した」との返答があった。
鞘も元新選組の伊東甲子太郎が親選組のものであると証言
●刺客が龍馬を襲った時に「こなくそ」という方言を吐くが、この方言は伊予の方言で、原田も伊予出身だったのだ。
しかし、原田の所持品を調べたが、一切わからずまま。
龍馬暗殺の疑いは、流山で捕らえられていた近藤勇の死刑につながる。
しかし、近藤勇には、新選組のしわざだと自白した説と、あくまで原田がやったという説もある。
●しかし、新選組犯人説は、完璧なまでの現場の証拠、証言等が揃いすぎている。だからこそ、それは何者かが偽装工作したとされるとみて、間違いない。
●犯行動機としては一番だろう。いろは丸と紀州藩船がぶつかり、多額の賠償金を請求される。
海援隊の背後にいる薩摩藩や土佐藩の影におびえて、相手の言うがままに八万両余りの大金を捻出する事になる。
その紀州藩の会計をやっていたのが、三浦休太郎。
金の恨みは充分な動機となる。
新選組隊士等に龍馬を殺してくれと命じても、おかしくはないだろう。
事実、油小路の天満屋で三浦と警護の新選組隊士や紀州藩士達と飲んでいる所を、土佐藩士の陸奥陽之助らが、「龍馬の仇」と斬りこんでいったのだ。
●動機としては、薩摩は武力討幕という強硬姿勢に、龍馬の大政奉還論の龍馬が邪魔になった。
●女中の証言だが、暗殺者が逃げてゆく時に二三の私語を交わしたが、それは鹿児島弁だったと言う。
龍馬を襲った時の「こなくそ」(瀕死の重傷の中岡慎太郎の証言なので)も「こげんなくそ」という鹿児島弁と間違えたのかもしれない。瀕死の中岡が正確に、状況説明できるかどうか・・・
●龍馬の最期を見護ったニ代目近江屋新助翁のご子孫・井口新助宅から海援隊幹部の佐々木多門の密書(幕府の大旗本・松平主税の家臣岡又蔵あて)が見つかった。
それには『才谷(龍馬の変名)殺害人姓名迄相分リ、是ニ付キ薩摩ノ所置等、種々愉快ノ義コレアリ』と薩摩が龍鵜暗殺に関与している事実がある。
●函館降伏人にの助命嘆願に一番熱心だったのは薩摩の黒田清隆。
坊主頭にまでなって、ついに極刑論派を沈黙させたのは有名。
さらに、西郷も応援し、今井信郎が伝馬町の牢に移されてからも、彼一個人の為に大層な助命運動に乗り出したのは西郷である。
これは家伝に斉しく告げる所である。
ただし、西郷と今井は、それまで、一面識もないはずなのだが
●大坪草二郎氏の「信郎伝」によると、西郷は征韓論に破れて帰国する途中、浜松の旅宿において、今井信郎の消息をたづね、伝言を頼んだという。
今井信郎とは、見廻組の刺客の一人とされている。
●薩摩藩士・中村半次郎、あだ名は「人斬り半次郎」。
明治以後、桐野利明と改名して陸軍小将になって、西南戦争の時に、西郷隆盛に加担して鹿児島の城山に散った男であるが、薬丸自顕流という必殺剣の使い手で、本当に強かったらしい。
しかし、中村は同じ薩摩藩の兵学資師範の赤松小三郎を斬った時は、どのようにして、しとめたか克明に日記に書いたのに、龍馬を殺したとは、どこにも書いていない。薩摩藩の兵学師範の赤松小三郎を西郷の忠告に逆らってまで暗殺をしてしまう型破りの中村から、たとえ薩長連合の功労者たる龍馬でも、その徳川的行動に、裏切り者として抹殺しかねないが。
しかし、龍馬暗殺時には外出していたい。
また、仮に中村が刺客としても、刺客の正体が薩摩藩士の中村半次郎だと判明したら、海援隊と土佐藩との関係が危なくなってくる。
近江屋の近くには土佐藩邸や海援隊の詰め所である酢屋もある。
そのようなリスクを背負って、薩摩が刺客を送るはずがないと思う。
●伊東甲子太郎は、11月中旬に、中岡慎太郎に「私は新選組の一人であるが、お前を殺す事になつておる。私が新選組におって、そういう事を言えば、あるいわウソかと思うかもしれぬが、決してウソではない。新選組は色々と変還してきて、今日では甚だよくない事になっている。それで、お前らは天下の名士であって、国家の為につくすことは承知している。承知しているので助けたい。今日、私はその方針に向かって天下の名士を助けようと思うから、どうかお前も私の事を聞いて、なるべく危険をさけてもらいたい」と言っている。
伊東はこうい事を言う限り、暗殺を試みる覚悟は出来ていると思う。
●新選組を脱けた伊東ら十何人かが、孝明天皇の御陵を守る衛士となり、東山にある高台寺を本拠とした。
この高台寺党の頭頭だった伊東は、龍馬が暗殺された三日後に、新選組長の近藤勇の酒宴に招かれて、その帰りに襲われ死んでいる。
さらに、異変を知って駆けつけようとした高台寺党の面々にも、新選組は襲いかかった。
三日後の事なので、何か龍馬暗殺と関係はないだろうか。
●しかし、この説にも無理がある。
中岡と伊東は少なくても三回は会っている。
中岡が斬られてから、約十七時間も生きて意識もしっかりしているのに、刺客が覆面をしていた形跡もない。
そういう格好なら、かえって怪しまれ、不意打ちも出来なかった。
刺客が伊東なら、まず中岡は必ず、二人が斬られた現場に真っ先に駆けつけた谷千城や田中光顕に、「伊東にやられた」と言うはずだ
●動機としては、大政奉還の功績を独り占めにしたかった。
前土佐藩主山内容堂は奉還鍵白の進言を後藤のアイデアと信じ込み、百五十石から千五百石に加増、家老格に抜擢。そうなると、真の献策者の龍馬が邪魔になる。
しかも河原町三条通りの材木商から四条河原町に龍馬のアジトが移ったのを知っているのは、後藤の他に、ほんの僅かな同士だけ。
それなら大政奉還が龍馬のアイデアのパクリだと山内容堂知られる事を恐れるあまり・・・
●しかし、あの時点では、後藤が自分の功績を独り占めするには、まだ龍馬の使い道があった。
これから先の、まだまだ状況が混沌とする中、大政奉還をしたとしても、まだどういう形で実現するのか、わからなかったはずだから、使い道があったから暗殺はしないはず。
もう少し、手元に置いておきたかったはず。
それに、龍馬を殺しても、龍馬が後藤に『船中八策』を提示した時には、長岡謙吉が書記でいた。
手柄を独り占めにしたいのから、少なくても龍馬以外に、長岡も消しておく必要があるが、長岡は明治5年まで生きている
●龍馬は殺される当日、風邪を引いており、底冷えする醤油蔵の母屋から二階座敷に移っている。
この事を知っている者はごくわすが。
陸援隊の中岡がこの部屋を訪れている以上、陸援隊では、複数の者が、龍馬がいる事を知っていると思われる。
●当時、武力討幕を叫ぶ陸援隊と龍間の間は予想以上に険悪。
いかに薩長連合の功労者でも、目に余る親幕的行動に走る男は「殺してしまえ」という意見は圧倒的だった。
「龍馬は徳川慶喜最終的に関白に推戴し、我々の武力討幕にミスを差そうとしている」と。
黒幕は「人斬り半次郎」と異名を持つ薩摩の中村半次郎。
型破りの中村なら薩長の功労者の龍馬でも、親徳川的行動の龍鵜を裏切り者として抹殺しかねない。
中村が陸援隊士の矯激な連中をけしかけて・・・
●龍馬が近江屋の土蔵から母屋の二階に移ったのは、襲われる前日の事。
それを知っている者は何人いただろうか。
にもかかわらず、下手人は真っ直ぐに龍馬と中岡のいる母屋に襲ってきた。
これは、中岡の後をつけていたからだと思えば、納得できる。
●しかし、龍馬は新選組や見廻組から行方を追っていたけど、中岡を追っていた痕跡がない。
●何も近江屋で中岡を暗殺する必要がない。
中岡を狙うなら、中岡の下宿で一人でいる所の方が成功率が高い。
●今井信郎の証言に「坂本先生、お久し振りです」と、声をかけ、どちらが、龍馬か見定めてから抜刀したと回想している。
もし、中岡を狙っているとしたら、「中岡先生、お久し振りです」と言ったはず。
結論から言うと、龍馬暗殺の下手人と黒幕を考えていくと、一番すんなり納得いくのは、下手人は見廻組で、黒幕に薩摩藩という考えが一番、すんなりといく。
例えば、後藤象二郎を黒幕にすると、動機からするとなぜ、なぜ、龍馬ばかりを暗殺したか。大政奉遷のアイデアを独り占めにしたかったら、龍馬以外にも暗殺しなければならない人もいたという謎が残る。
伊東甲子太郎が下手人なら、なぜ、中岡が伊東にやられたのかを証言しなかったのか、疑問に残る。
新選組にしても、あまりにも物的証拠がありすぎる。
しかも、もし、新選組がやったとしたら、得意になって、宣伝をしてもいいはずだが、全くない。
となると、「私がやった」と証言した今井信郎を信用すると、見廻組が下手人で、今井に対して怪し過ぎる西郷隆盛りが黒幕になる。
自分、同じ、薩摩人として、そう思いたくないが、事実関係からみると、そう思わずにはいられない。
いくら、龍馬は薩長連合の立て役者でもあり、個人的に龍馬と親交があり、暗殺を指令出せるはずがないと思うが。
が、将軍慶喜が大政奉遷してしまったため討幕に立ち上がる機を逸し、振り上げたコブシのおろしようがなくなった西郷は、江戸の薩摩藩邸に浪人五百人を集め、強盗を働かせて幕府を逆上させようとした。
個人的な感情とかなく、殺人さえも容認してしまう。
しかも、西郷は慶応3年12月9日の小御所会議にて、徳川慶喜の処遇をめぐって議論が対立していた時に、西郷は「もう議論では決着はつくまいが、短刀一本で片付くことだ」と言っている。
討幕実現にかける西郷の決意は、岩倉具視や山内容堂さえも、ましてや、龍馬の存在すらも、小さかったに違いない。
あと、もっと発想を飛躍させると『千葉佐那説』では。
彼女も北辰一刀流だし、動機としてはお龍と結婚した事に腹を立てて、江戸からやってきたのでは。
近江屋で、中岡慎太郎に色目を使い、龍馬を羽交い締めしている間に、頭をばっさりと斬ったとか。
そして、間違えて、中岡の頭まで斬ってしまい、怒った中岡と千葉佐那との決闘。
最初に負傷した中岡の不利で最後には力尽きる。
それならば、中岡が襲撃後二日間も生存していたのにもかわらず、刺客について何も語ってはいない。
女にやられたのでは、言うに言えなかったのだと思う。
龍馬暗殺アンケート (『歴史法廷』H5年10月発行アンケートより) |
暗殺の黒幕 | 幕府説 | 20% |
---|
大久保説 | 28% | 岩倉説 | 14% | 西郷説 | 13% | 土佐藩説 | 8% | 岩倉・大久保説 | 7% | その他 | 10% |
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