海 の 誘 い


 海は静かだった。
 俺はゆっくりと沖に向かって歩いていた。いや、歩かされていると言った方が表現としては的確であろう。
 俺は何者かによって操られ死に向かって更新させられているのだ。
 何かの為に・・・
 もしかしたら、罰があたったのかもしれない。
 俺はその方面では知られたスリ師だった。
 一時期、『山手の魔術師』と呼ばれていた。
 山手線を縄張りとして時の事だ。
 幼い頃から四十年、俺はスリで生きてきたのだ。
 何しろ、こんな不景気な世の中、悪い事でもしなきゃ生きてゆけない。
 一度、堅気になろうと職に就いたが、俺はそんなに世渡りはうまくなく、上司と喧嘩して、殴ってしまい、辞めさせられてしまった・・・

 波は俺の足から腰へと、おいでおいでと誘いをかけながら濡らしてゆく。
 何者かが、俺のスリ人生、俺の生命自体をも終止符を打とうとしているのだ。
 が、俺はその何者かを恨む気にはなれない。
 恨んで、どうなるというのだ。
 何者かは確実に、俺を殺そうとしている。
 完全犯罪・・・
 俺の身体を意のままに操り、自殺に見せかけて殺そうとしている。
 逃れようがなかった。
 それでも、俺は、その何者かを恨む気にはなれなかった。
 もしかすると、その何者かは、俺の心の中まで操っているかもしれない。
 何か、ゾッとしてきた。
 その証拠に、死への恐怖はなかった
 全てを失う悲しみもなかった。
 全て・・・
 考えてみれは、俺はその全てすらない。
 両親、親戚、友人、恋人・・・
 物心ついてからも、俺には何もなかった。
 気がつけば、俺は、あるスリ師に育てられていた。
 何も無い人生・・・
 人生に何かあるようにしたいために、盗むだけ盗み続けた。
 そして、今、あるのは、何か気持ち悪い男だったが、その男から盗んだ鍵。
 あれっ・・・ポケットに入れていたのだが、それすらもう無くなっていた。

 水面は、もう、俺の顎の所まで来ていた。
 顔を波が濡らしてゆく。
 相変わらず、死への恐怖はない。
 やはり、その何者かは、俺の心まで操っているのか・・・
 死への使命感・・・
 そう、死への使命感だ。
 俺は、このまま死ぬのか・・・
 あっけない人生だった。
 もっと他の生き方をしてみたかった。
 少し、涙が出てくる。
 俺は、口に入り込んでくる水を、せめて最後の食事だと思って、一口飲み込もうとした。
 でも、水は、どんどん俺の口に入ってくる。
 苦しい・・・
 苦しい・・・
 もがく事すら出来ない・・・
 その何者かは、それすら許さないのだ。
 このまま、本当に死ぬのか・・・
 ふと、俺は、この海辺に来る前に、近くのバーで酒を飲んだ事を思いだした。
 また、酒が飲みたい・・・
 こんな海水よりも・・・
 苦しい・・・
 酒を・・・
 俺は、息苦しく、ついに意識が遠ざかっていった。


 ちょうど、その頃、スリ師を催眠術で死においやった悪魔は、海辺のバーにいた。
 スリ師が最後に酒を飲んだバーだ。
 カウンターで独りで酒を飲んでいた。
 それにしても可哀相な事をしてしまったかなぁ〜
 何も催眠術を使って殺す事はなかったか・・・
 でも、あの男は、地獄へのドアの鍵を盗もうとしたのだ。
 悪魔にとっての大切な鍵を、コケにしやがって・・・
 地獄への悪魔は酒を飲む。
 そして、眉をひそめた。
 おやっ・・・
 グラスの酒に、少し潮の香りがしたからだった。




えすえふ少説に戻る