泥 沼




 いつまで俺はこんな事を続けるのだろうか?
 薄暗い店の中は彼らの絶え間ない乱狂の声、泥酔いして、ロレツの回らぬ口調で意味不明の言葉を吐き出し、クダをまく奴。酒の臭さと、もうもうとたちこめるタバコの煙。そのどれもが、ますます俺の心心を焦らせた。

 ちょうど、一ヶ月前だった。
「おい、今度もまた頼むぜ」そう言って、組織の奴から電話が掛かってきた。
「嫌だ。断る」俺はキッパリと断った。
しかし、奴はしつこく続けた。
「何を寝ぼけた事を言っているのだ。お前、組織の幹部じゃ内か。俺達から、逃げられると思っているのか。一度、組織に入ったら一生抜け出す事が出来ないのだぞ。しかも、ファザーが許すわけがない」
「断る。他の奴らにやらせれば良いじゃないか。なぜ、俺ばかりしつこく付きまとうのだ。俺が何をしたと言うのだ」
 俺は必死に断った。が、電話の向こう側で奴が薄笑いを浮かべ、俺の言葉などに耳を貸すつもりもない事が感じられた。
「おう、そうか。まさか、お前、忘れたとは言わせないぞ」
「たった、一度じゃないか。それも僅か三ヶ月足らずの間だ」
「そうだ。しかし、その三ヶ月が組織にとって一番大事な時期だったんだよな。それに美保さんの事もあるしな」
「美、美保、妻は関係ないだろう。もう済んだことだろう」
「ほう、もう済んだ事だろう。美保さんは組織の、俺達の憧れだったんだぞ。それをお前一人が奪ったのさ。いや、確かにお前が悪いわけじゃないが、美保さんがお前を選んだのだからな。だけど、なぁ、まだ引き受けてくれよ。でなけりゃ、俺達はお前の家まで組織ぐるみで押し掛ける事になるんだぞ」
 電話は切れた。俺はしばらく電話を握りしめたま、呆然と立ち尽くした。
 奴らは十年経ったいまも怨みを忘れていない。俺が十八の頃、ファザーと呼ばれる支配者の下に男女合わせて四十五人小さな、それでいてかなり厳しい規則に入っていた。俺はその組織が解散する三ヶ月前に幹部に就任した。しばらくして、組織は解散したが、それで終りではなかった。解散してからも、元組織のメンバーは半年ごとに会合を開く事になり、その為の幹部を俺が引き続ける事になったのだ。美保と結婚した頃から、何かが崩れ始めた。連中との間に、溝が出来たのだ。俺は少しの間だけ、会合の出席を辞退させてもらおうとしたが、会合の出席を許さなれないばかりか、幹部も降ろさせてもらえなかった。完全に俺への嫌がらせだ。俺も美保が辛い目に合う事を考えると奴らに逆らえず、どうする事も出来ない。
「ねぇ、どうしたの、あなた」
 ハッと我にかえると、美保が心配そうに俺を見上げている。
「いや、心配する事はない。例の会合の事だ。大丈夫だ」
「あなた、いつまでも幹部を辞められないのは、もしかして、わたしのせいなの」
「違う。美保のせいじゃない。会社の方もロンドン支社に転勤になる事になっているし、そうなれば、五年も日本に返ってこない。状況も変わってくるさ」
「本当に」
「あ、だから心配そうな顔をするな。そんな顔を健一の前では見せるなよ。まだ、三つとはいえ、子供は敏感だからな」

 十五年の月日が流れた。
 河村健一は教室の窓から、ぼんやりと校庭を眺めて板。教室では三学期のクラス委員長を選出する為の投票が行われ、健一と最後まで競り合っていた後藤という真面目そうな生徒が選ばれた。
「おい、健一、残念だったな。あと、もう少しだったのに」
 健一の隣りの席の生徒が言って、健一の脇腹をつついた。
「そうでもないさ。俺の親父の事を考えると。俺の親父が『高校三年三学期のクラス委員長はするなよ』って、いつも話していたからな。なんでも、親父が高三の時の担任が、教師の癖に『ゴッドファーザー』の熱狂的ファンで、生徒に自分事をファーザーって呼ばし、クラスの事を組織って言って、凄かったらしいぞ。たまたま、三学期にクラス委員長をやったばっかりに、卒業後も、同窓会を半年ごとに開かなければならないし、しかも幹部だか、幹事だが知らないけど、親父はウンザリする程、宴会の幹事をやらされたらしいぞ」
「へぇーっ、そうか。それじゃあ、健一が六年間、ロンドンに住んでいたのも何か関係があるんじゃないか」
「そうかもしれん」俺は無愛想に答えた。
 家に帰ると、仕事熱心の親父が珍しく早々と帰宅していた。
「父さん、俺、委員長にならなかったよ」そう言いながら、健一は階段を登って自分の部屋に入っていった。階下のダイニングでは親父の『そうか、そりゃあ、良かったと言う声が響いていた。
 着替えを住ませ、健一が下に降りようとした時に、ちょうど電話が鳴って、健一が電話を取った。
 親父の電話だった。
「ちょっと、待って下さい」そう言って健一は、受話器を親父に渡した。
「河村だか」と威厳のある声で電話口に出たが、しばらくすると「いや、困る。誰か他の人に変わってくれ」と声が上づり、うろたえている。健一は不審に思いながら、そのやりとりを聞いていた。親父は電話を切った。親父はガックリと方を落としていた。
「どうしたの父さん」
「泥沼だ・・・」
「ええっ」
「泥沼だよ、健一。やっと抜け出したと思ったのに、また泥沼に引きづり込まれてしまったよ」
「一体、どうしたの、父さん」
「また、会合の幹事をやってくれだとさ・・・」
「へぇーっ・・・大編・・・だね・・・」
 健一は何と父に言ってあげたら良いかわからなかった。そして、ふと、思った。高三の大学受験を控えた大事な時期に、今度はドイツ支社に転勤すると言い出しかねない親父をどう、説得しょうかと。案の定、親父はせかせかと会社の人事課に電話していた。



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